御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
百済寺ではいただけません
広告
百済寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2022年07月23日(土)
参拝:2022年7月吉日
奈良県の寺院巡りの6寺目は、5寺目と同じく北葛城郡広陵町に在る百済寺(くだらじ)です。
高野山真言宗で、本尊は兜跋毘沙門天。
百済寺の本堂及び三重塔の(内部)見学を希望する場合は、先の与楽寺と同様に規定の申込書に必要事項を記入の上、見学希望日の2週間前までに広陵町の生涯学習文化財課へ申込みが必要です。(申込書は広陵町のHPからダウンロードする)
百済大寺(後の大安寺)と云われ、遷都により荒廃した後に空海が三重塔を建て復興させたと伝わりますが、発掘調査で古い瓦などが出てこないため現在は伝承の域を越えないとされています。室町時代にこの地は多武峰(談山神社)の領地となり末寺となった。慶長年間(1596~1615年)には6坊を数えたが、明治時代に入り廃寺となった。
約束時刻より少し早く着きましたが、既にご担当の方がいらっしゃって、三重塔と本堂の扉を開けて頂いていました。暑い中お手数お掛けしました。先ずは三重塔から。建立年代は不明ですが、現存する塔は鎌倉時代中期の建立と考えられ重文です。なかなか格好良い塔です。扉が開かれていますので初層の中へ入らせて頂きました。心柱は見えませんが大日如来坐像が祀られています。高さ66cm、胎内墨書銘により1675年の作。三重塔を出て次に本堂へ。談山神社の旧本殿を移築したものと考えられており、「大織冠」と呼ばれています。
本堂の本尊は兜跋毘沙門天、高さ約93cm、墨書より1707年の地震で本堂と本尊が倒壊したため1708年に作られたもの。左右の脇間には十一面観音像と菩薩像、高さは約159cmと156cm、一木造りですが、室町時代の作と考えられています。暗いため細かな所までわかりませんでした。近年までもう1躯、高さ約90cmの馬頭観音立像が安置されていましたが1999年に盗難に遇い所在不明です。嘆かわしい話です。
尚、百済寺の御朱印は、葛城市の當麻寺 西南院で頂けるそうです。(同じ高野山真言宗の當麻寺の末寺?)
高野山真言宗で、本尊は兜跋毘沙門天。
百済寺の本堂及び三重塔の(内部)見学を希望する場合は、先の与楽寺と同様に規定の申込書に必要事項を記入の上、見学希望日の2週間前までに広陵町の生涯学習文化財課へ申込みが必要です。(申込書は広陵町のHPからダウンロードする)
百済大寺(後の大安寺)と云われ、遷都により荒廃した後に空海が三重塔を建て復興させたと伝わりますが、発掘調査で古い瓦などが出てこないため現在は伝承の域を越えないとされています。室町時代にこの地は多武峰(談山神社)の領地となり末寺となった。慶長年間(1596~1615年)には6坊を数えたが、明治時代に入り廃寺となった。
約束時刻より少し早く着きましたが、既にご担当の方がいらっしゃって、三重塔と本堂の扉を開けて頂いていました。暑い中お手数お掛けしました。先ずは三重塔から。建立年代は不明ですが、現存する塔は鎌倉時代中期の建立と考えられ重文です。なかなか格好良い塔です。扉が開かれていますので初層の中へ入らせて頂きました。心柱は見えませんが大日如来坐像が祀られています。高さ66cm、胎内墨書銘により1675年の作。三重塔を出て次に本堂へ。談山神社の旧本殿を移築したものと考えられており、「大織冠」と呼ばれています。
本堂の本尊は兜跋毘沙門天、高さ約93cm、墨書より1707年の地震で本堂と本尊が倒壊したため1708年に作られたもの。左右の脇間には十一面観音像と菩薩像、高さは約159cmと156cm、一木造りですが、室町時代の作と考えられています。暗いため細かな所までわかりませんでした。近年までもう1躯、高さ約90cmの馬頭観音立像が安置されていましたが1999年に盗難に遇い所在不明です。嘆かわしい話です。
尚、百済寺の御朱印は、葛城市の當麻寺 西南院で頂けるそうです。(同じ高野山真言宗の當麻寺の末寺?)
すてき
投稿者のプロフィール
nomuten970投稿
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば住職さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
住職さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。