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かいりゅうおうじ|真言律宗佐保山

海龍王寺の御由緒・歴史
公式奈良県 新大宮駅

ご本尊十一面観音菩薩立像
海龍王
創建時代731年(天平3年)
開山・開基光明皇后
ご由緒

この地には飛鳥時代より土師氏の氏寺が在りました。平城遷都の後、一帯は藤原不比等の邸宅となりますが、お寺は邸宅の北東隅に存続したことから『隅寺・隅院』と称されることになり、天平三年(731年)光明皇后によって伽藍が整えられます。

天平六年(734年)第九次遣唐使として唐に渡っていた玄昉が帰国の途中、東シナ海で暴風雨に襲われますが、乗船に収められていた一切経五千余巻より『海龍王経』を一心に唱えたところ九死に一生を得て種子島に漂着。翌天平七年平城宮に帰朝し、海龍王寺・初代住持に任じられました。嵐の中、海龍王経を唱えて無事に帰朝したので遣唐使の渡唐安全祈願を修することになり、聖武天皇が寺号を『海龍王寺』と定め、勅額を賜ります。

同時期、玄昉による般若心経の講釈とともに般若心経の写経が盛んに行われ、現在も隅寺心経として珍重されています。
弘法大師空海も遣唐使として唐に渡る際、渡唐の無事を祈り般若心経を千巻書写して当寺に収められ、帰国の後、再度海龍王寺を訪れて毘沙門天の画像を奉納されました。

平安遷都以降、お寺は衰退しますが鎌倉時代、西大寺を復興した興正菩薩叡尊により諸堂の改修・仏像の造立が行われます。戒律の道場として繁栄したものの、応仁の乱の勃発により戦乱に巻き込まれ再び衰退。徳川幕府から知行を受け伽藍の維持管理、修復を行いますが明治の廃仏毀釈により大打撃を受け昭和二十八年まで荒廃に任されます。

同年、特任住職として着任した中興一世 松本重信大徳により復興がなされ現在に至ります。

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