ひらいじんじゃ
平井神社の編集履歴
郵便番号
518-0825
ご由緒
当社は往古よりの鎮座であり、「伊賀誌」に「孝謙天皇御宇天正勝宝3年(751)伊賀疫行天皇立使以小田庄祭大己貴命・事代主命於此疫鬼鎮焉」とあり、「平井神社由緒記」に「延長元年(923)9月事代主命平井天神宮と須氏神と崇める」とある。「伊水温故」「三国地誌」によれば菅原道真公縁の梅が九州大宰府より飛来したと云う縁起をもち飛来天神宮とも称され旧小田村字東出(往古は平井)に鎮座とある。「兼右郷記」に永禄11年(1568)伊賀国守護職仁木長政の招きにより吉田兼右が京都より上野丸山(旧小田村鉄砲場)の新城の地鎮祭を執行「幣串近所之天神内陣」に奉納とあり、当社の事であると思われる。江戸時代に俳諧連歌の座の中心とされ、延宝3年(1674)9月藤堂藩城和奉行玉置甚三郎、号無端寄進の石灯籠刻名「○氏天端」が現存する。無端は芭蕉が師事した北村季吟につながる俳人で松尾芭蕉の先輩にも当たる。文久年間に社殿は火災に罹り焼失し再建された社殿も嘉永7年(1854)の大地震に因り地盤沈下し、翌安政2年7月・9月と2度の大洪水にあい、更に明治3年9月稀有の大洪水に全村民家浸水流出の難に遇った。当村移居係村田順造は旧藩主藤堂家及び県知事に現在地の土地払い下げを嘆願し、明治6年許可なり、地名を明治屋敷と名付けた。村民移転の後、明治10年10月神社を建立、平井天神宮(八重事代主命)境内社津島社(素戔嗚尊)並に同村字西出の春日神社(天児屋根命,武甕槌命,経津主命,天鈿女命)境内社津島社(素戔嗚尊)更に同村字東出の疾追神社(疾風神)を合祀し、社名を平井神社と改称した。明治40年5月、同村字往古川の山神社(大山祇神)を合祀した。又、白川白瀧稲荷社を祀り護国神社には日露戦争の御霊を祀る。