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ゆうせんじ|日蓮宗松崎山

涌泉寺の編集履歴
2024年07月04日(木)
京都府 修学院駅

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soo_cyan
2024年07月04日 09時53分

通称

松ヶ崎檀林

ご由緒

涌泉寺当寺は大正7年(1918)5月、松ヶ崎集落にあった同じ日蓮宗の妙泉寺と本涌寺が合体して、両者の寺名をとって成立した日蓮宗の寺院である。ただし、当寺の現在地はかっての本涌寺の寺地にあたり、妙泉寺の敷地は今松ヶ崎小学校の校地となっている。
ところで、松ヶ崎集落は洛西の鶏冠井集落とともに、鎌倉時代の末に日像によって東国から日蓮宗がはじめて京都に伝播したとき、いちはやく教化された集落であって、それ以後当地の住民は一村あげて皆法華という信仰現象を形成していた。
今日、この松ヶ崎集落の住民により毎年8月15、16日の精霊会の送り火に「妙法」の二文字が松ヶ崎の西山と東山に燃やされ、また8月15、16日の両日に当寺の境内で題目踊りが行われているが、この起源は、文献によっても近世はじめまでさかのぼることができ、いずれも当集落の熱心な法華信仰の伝統を示すものである。
妙泉寺は京都地方の日蓮宗寺院としては最も古い寺院の一つで、かつて、松ヶ崎集落にあった歓喜寺の住持実眼が日像に帰依して日蓮宗に改宗し、寺名を妙泉寺と改称したにはじまり、以後松ヶ崎集落の住民の信仰を集めた寺である。一方、本涌寺は日蓮宗洛陽檀林の一つである松ヶ崎檀林の寺号である。檀林とは、近世初頭に日蓮宗教団が宗内僧侶の養成のために設けた学問所のことで、松ヶ崎檀林は数あえる落葉諸檀林のなかでも、実に最古のものである。すなわち松ヶ崎檀林本涌寺は、天正2年(1574)、教蔵院日生が当地に講筵を開いたことにはじまる。日生ははじめ立本寺日経、次いで妙覚寺日典に師事し、叡山にも遊学した当時の日蓮教団きっての碩僧で、天正5年(1577)には関東下総の飯塚檀林にくだって要行院日統をたすけて天台三大部を講じ、次いで日統の没後は飯塚檀林に転じて学徒を養成し、天正8年(1580)再びこの松ヶ崎に帰って学室に学徒を集めた。本涌寺なる寺号も、この頃出来たものであろう。その後、日生は京都立本寺あるいは岡山蓮昌寺にも晋住したが、晩年三たび松ヶ崎檀林に帰って、文禄4年(1595)この地で没した。
以来、松ヶ崎檀林の化住(現在の学長にあたる)は、円通院日純、教蔵院日陽など宗内碩僧に次第され、明治初年にいたるまで、全国から能化(現在の教官)や所化(学生)がこの地に集まり、近世日蓮宗教学のメッカとして栄えた。涌泉寺は、この松ヶ崎檀林の旧跡である。現在、当寺に伝蔵される古文書・記録・聖教類は、妙泉寺系統のものは少なく、おもに松ヶ崎檀林関係のものである。門人帳・檀林規則・宗門聖教類があるが、いずれも近世のものである。
檀林としての規模が、講堂・学室・食堂などの諸建造物が建築されて整備したのは、江戸前期の十一代化主興正院日意の代のころで、記録によれば、当時、東福門院女院御所の建造の残木を寄せられて、これが整備されたという。
注目すべきは、当寺の現在の本堂で、これは往時の檀林の講堂がそのまま転用されたもので、承応3年(1654)の建造にかかり、様式は禅宗本堂と同じく六つの間取りであって、特異な様式を示し、日蓮宗檀林の講堂の遺構としては、全国的に見ても最古にして、唯一のものと思われる。当寺には、このほか檀林の旧姿をしのぶものとして、今は衰滅した「白頭軒」・「妙玄堂」などの扁額を伝えている。また、日生上人の座像が伝蔵され、境内には日生以下歴代化主・能化・所化の墓石がある。
                                    -涌泉寺公式HPより-

山号

松崎山

Wikipedia

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