御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方

つなしきゆきえてんまんぐう(まつおたいしゃけいがいまっしゃ)

綱敷行衛天満宮(松尾大社境外末社)の編集履歴
2024年05月29日(水)
京都府 丹波口駅

soo_cyanさんのプロフィール画像
soo_cyan
2024年05月29日 00時01分

ご由緒

昭和9年の創祀。西七条村に祀られていた綱敷天満宮と行衛天満宮を合祀した。綱敷天満宮は同地に、行衛天満宮は同地の西方に鎮座しており、共に洛陽天満宮二十五社に数えられていた。現在は松尾大社の境外末社の一つであり、本殿は寛政年間の建立されている。

綱敷天満宮
 創祀は不明。西七条村にある森は、高さ数十丈、山の如く見える榎があり、榎の森と称されていた。森の傍らには広大な菖蒲池があり、四季を通じて花が絶えない景勝の地であった。道真の乳母である文子はその西七条村の出身であり、道真も白太夫という従者を従えて遊びに来ていた。
 道真はこの森を「閑静の勝地」と称し、別荘を建てて池で舟遊びをしていた。里人が調達した舟綱を円座にし、その上に座して詩歌を詠んでいたが、里の子どもが真似をしている。道真は自分の姿を残して置こうと網敷の像を自らが描き、その父子に与えた。
 後に道真は筑前に左遷されたが、帰洛の勅命が無く、京洛を思い、父子に与えた網敷の像を榎の森に祀りたいと、白太夫に命じて文子に伝えさせた。文子は小祠を建てようとしたが、道真を憚ってそのままになっていた。ある夜、夢に「ここに来て身を入れる宿がない。疑わず我が住居を作るべし」と託宣があり、一宇を建立して榎寺と名付けた。
 また、『山州名跡志』によれば、道真が筑紫へ左遷される時、博多において舟に乗った時、御座が無かったので舟の綱を敷いて御座とした。この時、一夜にして白髪となり、それを図して「一夜白髪の御影」と云い、その神像を安置したために綱敷天満宮と称した、と記されている。

行衛天満宮
 元々は「靱負天満宮」が正しいとされ、平安京の右京を南北に通る「西靱負小路」に面していたことから名付けられたとされる。西靱負小路は「猪隈通」とも呼ばれ、北野天満宮南門から唐橋を経て吉祥院へ通じる道で、道真も良く通ったとされている。また、道真の乳母文子の旧宅跡地に祀られていたともされている。

創立

昭和9年

巡礼

洛陽天満宮二十五社(綱敷天満宮、行衛天満宮ともに)

ログインすると情報を追加/編集できます。