かんのんじ|曹洞宗|佛崎山(仏崎山)
観音寺の編集履歴
ご由緒
観音崎の地名は 海蝕洞窟伝説に遡り、
奈良時代の僧行基が船の安全のため十一面観音(船守観音)を
海蝕洞窟に納めたことに由来すると伝えられている。
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現在の洞窟は海面から6~7m位の場所にあるが、
1万年~6000年前の暖かい間氷期,
今より海面が5mほど上がっていた時に
波に削られてできたと考えられている。
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明治十三年(1880)観音崎に陸軍砲台が築造され要塞化されたため、
翌 明治十四年(1881)観音崎の観音寺は鴨居港と
腰越の浜の中間に突き出た小さな半島の
亀崎の先端部の当地周辺へ移されました。
亀崎に移されてからも「船守観音」は多くの人々の信仰をあつめ
また寺を地域の青少年に文庫と学習室として開放し、
更に夏の間は健康センターとして開放する等地域の人々に親しまれていた。
.
しかし悲しいことに 昭和六十一年(1986)火災により焼失。
整備再興されたが現在の姿は、
寺標石柱と霊場巡礼石標が立つ小さな観音堂のみ。
.
三浦三十三観音としての第14番札所「観音寺」は、
” 横須賀市吉井にある第15番札所「真福寺」が現在は代行しています。”
編集前:観音崎の地名は 海蝕洞窟伝説に遡り、
奈良時代の僧行基が船の安全のため十一面観音(船守観音)を海蝕洞窟に納めたことに由来すると伝えられている。
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現在の洞窟は海面から6~7m位の場所にあるが、
1万年~6000年前の暖かい間氷期,今より海面が5mほど上がっていた時に波に削られてできたと考えられている。
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明治十三年(1880)観音崎に陸軍砲台が築造され要塞化されたため、
翌 明治十四年(1881)観音崎の観音寺は鴨居港と腰越の浜の中間に突き出た小さな半島の
亀崎の先端部の当地周辺へ移されました。
亀崎に移されてからも「船守観音」は多くの人々の信仰をあつめ
また寺を地域の青少年に文庫と学習室として開放し、
更に夏の間は健康センターとして開放する等地域の人々に親しまれていた。
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しかし悲しいことに 昭和六十一年(1986)火災により焼失。
整備再興されたが現在の姿は、寺標石柱と霊場巡礼石標が立つ小さな観音堂のみ。
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三浦三十三観音としての第14番札所「観音寺」は、
” 横須賀市吉井にある第15番札所「真福寺」が現在は代行しています。”
見所
地図で 観音崎 に表示される ’ 観音寺跡 ’ とは別の場所ですので ご注意を。
経緯は、明治十三年(1880)観音崎に陸軍砲台が築造され要塞化されたため
翌 明治十四年(1881)観音崎の観音寺は鴨居港と
腰越の浜の中間に突き出た小さな半島の
亀崎の先端部に移されました。
亀崎に移されてからも「船守観音」は多くの人々の信仰をあつめ
また寺を地域の青少年に文庫と学習室として開放し、
更に夏の間は健康センターとして開放する等地域の人々に親しまれていた。
しかし悲しいことに 昭和六十一年(1986)火災により焼失。
整備再興されたが現在の姿は、
寺標石柱と霊場巡礼石標が立つ小さな観音堂のみ。
しかし、岬突端からの眺望は素晴らしいです。
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三浦三十三観音としての第14番札所「観音寺」は、
” 横須賀市吉井にある第15番札所「真福寺」が現在は代行しています。”
編集前:地図で 観音埼 に表示される ’ 観音寺跡 ’ とは別の場所ですので ご注意を。
経緯は、明治十三年(1880)観音崎に陸軍砲台が築造され要塞化されたため
翌 明治十四年(1881)観音崎の観音寺は鴨居港と腰越の浜の中間に突き出た小さな半島の
亀崎の先端部に移されました。
亀崎に移されてからも「船守観音」は多くの人々の信仰をあつめ
また寺を地域の青少年に文庫と学習室として開放し、
更に夏の間は健康センターとして開放する等地域の人々に親しまれていた。
しかし悲しいことに 昭和六十一年(1986)火災により焼失。
整備再興されたが現在の姿は、寺標石柱と霊場巡礼石標が立つ小さな観音堂のみ。
しかし、岬突端からの眺望は素晴らしいです。
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三浦三十三観音としての第14番札所「観音寺」は、
” 横須賀市吉井にある第15番札所「真福寺」が現在は代行しています。”