しょうじゅうじ|臨済宗円覚寺派|萬秀山
正宗寺の編集履歴
ご由緒
萬秀山正法院と号する寺院で,延長元(923)年に萬秀山正法院と号する寺院で,延長元(923)年に平将門の父良将が創建。
創建当初は勝楽寺と号し,律宗で奉仕されていました。その後,貞王2(1223)に佐竹氏4代秀義が勝楽寺の境内に正法院を,暦応4(1341)年に9代貞義の子である月山周枢が師の夢窓疎石を招き,同じ寺院内に正宗庵を創建。10代義篤が正宗庵を臨済禅刹に改めて正宗寺としました。。
創建当初は勝楽寺と号し,律宗で奉仕されていました。その後,貞王2(1223)に佐竹氏4代秀義が勝楽寺の境内に正法院を,暦応4(1341)年に9代貞義の子である月山周枢が師の夢窓疎石を招き,同じ寺院内に正宗庵を創建。10代義篤が正宗庵を臨済禅刹に改めて正宗寺としました。
常陸太田市役場ホームページより。
正宗寺は萬秀山と号する臨済宗円覚寺派の寺院で、かつて常陸国を治めていた大名、佐竹氏の菩提寺です。寺の創始は古く、平安時代後期の延長元年(923)に鎮守府将軍平良将が律宗の増井寺を建立したことに始まると言われています。
その後、真言宗に代わり勝楽寺と改称され、浄土宗式庭園を持ち佐竹氏保護のもとに発展しました。佐竹4代当主秀義は寺中に子院の正法院を建て、正法院焼失後、8代当主の行義が正法寺を建立しました。南北朝時代には、9代当主の貞義の庶長子、月山周枢が、京都天龍寺の夢窓国師を勝楽寺・正法寺の中興の勧請開山とし、自らは正宗庵を営み、開基2世となっています。
室町時代には、10代当主の義篤が庵を寺と改め七堂伽藍を起こし、正宗寺が初めて興り、佐竹氏の保護のもとに関東十刹のひとつにまでなりました。
佐竹氏が秋田へ国替えとなった後も、3代将軍徳川家光より朱印百石を拝領したほか、水戸藩初代藩主頼房以来、歴代藩主から厚く尊崇を受けてきました。天保9年(1838)総門を残し焼失してしまいましたが、県指定文化財に指定されている「滝見観音図(雪村筆)」や「木像十一面観音菩薩坐像」をはじめ、27件が指定文化財となっています。
編集前:萬秀山正法院と号する寺院で,延長元(923)年に萬秀山正法院と号する寺院で,延長元(923)年に平将門の父良将が創建。
創建当初は勝楽寺と号し,律宗で奉仕されていました。その後,貞王2(1223)に佐竹氏4代秀義が勝楽寺の境内に正法院を,暦応4(1341)年に9代貞義の子である月山周枢が師の夢窓疎石を招き,同じ寺院内に正宗庵を創建。10代義篤が正宗庵を臨済禅刹に改めて正宗寺としました。。
創建当初は勝楽寺と号し,律宗で奉仕されていました。その後,貞王2(1223)に佐竹氏4代秀義が勝楽寺の境内に正法院を,暦応4(1341)年に9代貞義の子である月山周枢が師の夢窓疎石を招き,同じ寺院内に正宗庵を創建。10代義篤が正宗庵を臨済禅刹に改めて正宗寺としました。