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じんらくじ|天台宗八幡山

神楽寺の編集履歴
2023年05月12日(金)
群馬県 北藤岡駅

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くし
2023年05月12日 19時58分

ふりがな

じんらくじ

ご由緒

神楽寺の創建は不詳ながら古くから神仏混合していたようで、釈迦如来の他に八幡大菩薩を祀り修験僧が出入りする寺院であった。

源頼朝の被官 安達盛長により鎌倉鶴岡八幡宮を角渕に勧請。
応永十八年(1411)関東管領足利満家が角渕八幡宮を修復。
永正四年(1507)、白井城主長尾憲景の家臣 吉里対馬入道が角渕八幡宮を再度修復するとともに、当寺も拡張修復して一寺を建立、八幡宮別当として八幡山遍照院神楽寺と号す。

慶長十五年(1610)関東郡代伊奈備前守忠次により、玉村新田開発の成就祈願成功の約として、玉村上下新田境に八幡宮を勧請修復造営が営まれた。
寛永のころ(1630ごろ)東叡山寛永寺の末寺に組み込まれる。
慶安二年(1649)三代将軍家光の朱印を押印した御朱印状三十石を賜った。
なおこの三年後の承応元年(1652)には茂木郷の田口氏(神奈川合戦で活躍)の子孫 所左衛門が一対の灯籠を八幡社前に寄進。玉村町最古の石灯籠である。
以下将軍代替わりごとに、貞享二年(1685、五代綱吉)、享保三年(1718、八代吉宗)、延享四年(1747、九代家重)、宝暦十二年(1762、十代家治)、天明八 年(1788、十一代家斎)、 天保十年(1839、十二代家慶)、安政二年(1855、十三代家定)万延元年(1860、十四代家茂)と9枚の朱印状を残している。

安政六年(1859)に本堂は火災焼失したので、境内万日堂の本尊阿弥陀如来を本堂に移して本堂本尊とした。
明治元年(1868)神仏分離令で玉村八幡宮と分かれる。
昭和九年(1934)本堂を新築して万日堂を合祀し(旧幕時代の万日堂は八幡宮境内にあった)、そしてこの万日堂は幕末玉村宿寄場組合の寄合場としてしばしば使用され、三右衛門日記』をものした大惣代渡辺三右衛門、宿内の問屋井田金七郎らが談合した所であった。
昭和四十九年(1974)に鐘楼を改築。
不動堂は文政甲申(七年)勧請、井田家寄進、昭和九年修復。
薬師堂は焼失後昭和十六年(1941)七丁目有志寄進、昆沙門堂は寛政二年(1790)九丁目へ移し厄よけとした。

ご祭神/ご本尊

阿弥陀如来

御朱印

あり

山号

八幡山

院号

遍照院

創立

不詳

本殿/本堂の建築様式

入母屋造り

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