やべじょうあとはちまんぐう
矢部城跡八幡宮の編集履歴
ご由緒
【矢部城】
太田市只上向矢部字城の内に矢部城址がある。下矢部西側の田の中に土居と濠の一部が遺り、その土居の東端に火の見櫓の鉄塔が立っている。これも矢田堀城と同じような規模の単郭城で、両者共、金山城の支城として同一企劃の下に築かれたものと思われる。
塁の上の碑に「正八幡大菩薩、祀家臣十三名の霊魂、大正十一年四月×日、納主須藤茂吉」とあって、天正十三年、金山籠城の際の戦死者を弔ったものであろうか。
(「群馬県古城塁址の研究 上巻」より)
【矢部城の不思議】
矢部城が小田原に攻められたとき、味方の応援が得られなくて孤立してしまった。このため、城もまわりの民家も一面焼き払われてしまった。このとき、城主は自害したが、ある家来が逃げるとき、城主の首を上矢部の愛宕神社の本殿の下に埋めて逃げたという。
城跡には八幡様がまつられているが、その後、この付近に手をつけると祟りがあるという。
明治の初年、他から養子にきた人が、このいきさつを知らずに、八幡様のあった榎の木の枝を伐りたいとムラの世話人に申し出た。ムラの人は、不思議なことを言う人だと思いつつ、これを許したという。その人は、枝を伐ってきて薪につかったという。するとその人の母屋は全焼してしまった。
榎の木は幹だけが残っていたが、ある法印さんが、おれが清めるからそれをもらいたいとムラの世話人に申し出た。ムラの世話人は、これを許して伐らせたという。法印は、この榎の木を水車の心棒につかって水車をつくった。すると、工事が終わって三日目に、母屋が全焼して、七日目には法印の長男が水死してしまった。
その後、八幡様に手をつけるものはいなかった。
たまたま、現在の持主の先祖が国から土地の払い下げをうけた。八幡様を移転してはたけにしようとした。そのとき、払い下げをうけた人の嫁に子供ができ、乳をくれていた。すると、子供が急に重くなった。驚いて子供をみると、首に白ヘビがまきついて嫁をにらんでいたという。
払い下げをうけた人は、日蓮宗の行者であったので、すぐに行に入った。すると、八幡様の怒りが出た。二日間おまつりしてもとの所に戻せば、勘弁するとのお告げがあった。そのとおりにするから是非勘弁してほしいというと、その白ヘビは、どこともなく消え去った。その後、八幡様をもとの城跡に戻して、ムラの人を全部呼んで、二日間おまつりした。佐野の太神楽や剣道の試合などを催して盛大におまつりした。赤飯が食べ放題であった。半めしを食べていた時分なので、赤飯は非常においしかったという。
その後、終戦の年の五月、食糧増産のためサツマを植えるという区長からの命令が出た。しかし、皆は尻込みをして、植える人はなかった。区長が、神様の罰があたるならおれがうけるから是非植えてくれとムラ人を説得した。ムラ人もこわごわとサツマを植えた。ところが、終戦の前日、下矢部の一番裏の家の藪から東北にかけて焼夷弾が落ちた。これにより、かつて矢部の名主をしていた家とか醤油矢部の数戸が全焼した。
八幡様に手をつけると、火の雨が降るという昔からの言い伝えが実証されてしまった。現在では、八幡様に手をつける人はいないという。
(「太田市史 通史編 民俗(下巻)」より)
見所
矢部城という城跡に立つ八幡宮の石祠。
明治から終戦直前まで数々の災厄を撒き散らしたという強烈な祟り神。
駐車場
なしだが、城跡前に1台程度なら駐車可
創立
不詳 矢部城落城は天正十三年(1585年)
創始者/開山・開基
不詳
ご神体
石祠・石神