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ほうかいじ|真言宗智山派三箱山

法海寺の編集履歴
2023年05月18日(木)
福島県 湯本駅

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ダイコン
2023年05月18日 19時32分

ご由緒

【 湯ノ岳の観音堂の歴史 】
大同2年(807年)に、徳一大師が湯ノ岳の南中腹に堂宇(観音堂)を建立し、この地に住む万民の無事安全を願って自ら刻んだ十一面観音像を納めました。
永禄8年(1565年)、観音堂は野火に焼かれてしまい、由緒ある観音の宝燈が途切れることを心配した岩城太守の平朝臣重隆が、観音堂を再建しました。
それ以来、湯長谷歴代藩主も帰依し、奉持してきました。
【 観音堂の改修と鐘撞堂の寄進 】
延宝9年(1681年)3月27日、遠山主殿頭藤原朝臣政亮の夫人が、重隆再建から115年を経た観音堂を改修し、梵鐘を鋳造して鐘撞堂を建てて寄進しました。
梵鐘は貴重な品で、高さ1.18m、径75.5cm、重さ400kgであり、観音の歴史を刻んだ銘文が刻まれています。
【 法海寺の開山と興隆 】
法海寺の開山は永禄2年(1559年)2月25日、宥長法印が田場坂の地に寺を開山したことに始まります。
慶安元年(1648年)10月24日、徳川三代家光から御朱印10石を拝領したことで、法海寺は栄える存在となりました。
それ以降、歴代の住職は別当として、朱印状9通を有していました。
【現在の観音堂の再建】
観音堂は安政2年(1855年)の火災で焼失し、安政3年(1856年)に湯ノ岳から法海寺の境内へと移され再建しました。
その観音堂も文久3年2月(1863)に再び火災にあい、法海寺の本堂ともども焼失しています。
このため仮本堂を建て法海寺本尊と一緒に安置し、観音堂の再建を目指しました。
そして、昭和14年(1939年)になってようやく観音堂が完成し、入仏して現在に至っています。

編集前:大同2年(807年)には、僧徳一が湯ノ岳の南中腹に堂宇を建立し、自ら刻んだ十一面観音像を納め、万民の無事安全を願いました。
永禄2年(1559年)2月25日、宥長法印が田場坂の地に一寺を開山し、法海寺と名付けました。
同時期に観音堂は野火に焼かれてしまい、永禄8年(1565年)には檀郡岩城太守平朝臣重隆が、由緒ある観音の宝燈が途切れることを心配し、再建しました。
以来、湯長谷歴代藩主も帰依して奉持してきました。
慶安元年(1648年)10月24日、徳川三代家光より御朱印十石を拝領して以降、歴代9通の朱印状を有する別当(住職)として法海寺は栄えました。
延宝9年(1681年)3月27日、遠山主殿頭藤原朝臣政亮の夫人は、すでに重隆再建以来115年を経て、損傷がひどくなった観音堂を大改修した上に、梵鐘を鋳造させ、鐘撞堂を建てて寄進しました。
梵鐘は高さ1.18m、径75.5cm、重さ400kgで、銘文を刻み観音の歴史を300年余り記録した貴重な品です。
天保6年(1835年)には、二度目の火災で観音堂を失い、田場坂法海寺の境内に湯ノ岳から移して再々建しました。
この堂も安政元年(1854年)には、三度目の火事で本堂共々焼失しています。
このため、仮本堂を建て、法海寺本尊と一緒に安置し、観音堂の再建を期して、昭和14年(1939年)にようやく完成し、入仏して現在に至っています。

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