ことひらじんじゃ
金刀比羅神社の編集履歴
ご由緒
【 始まり 】
永正2年(1505年)、現在の宮司家の第3代である威寶院弘栄は、いつも尊崇していた四国の金毘羅大権現の御分霊をこの地に祀ることで始まりました。
それ以来、その神の威厳はいわき市内だけでなく、茨城県北部の人々にも広く尊ばれるようになりました。
【 社殿の焼失 】
元和2年(1616年)、天火(落雷)により社殿が全焼しました。
また、宝暦年間(1751年以降)、磐城藩の江戸への年貢米輸送船や沿岸の漁船が相次いで海難に遭い、遭難や難破が激増しました。
この出来事は「金毘羅大権現の崇敬」の象徴として恐れられました。
【 祈願と再建 】
その時の威寶院の第23代である峯順はこの状況を嘆き、四国の金毘羅大権現に三十三度詣でをし、海難の救済を祈願しました。
その結果、神の威力が明らかに現れ、海難事故は激減し、再び安全な航海が可能になりました。
この喜ばしい結果により、磐城藩主をはじめとする多くの人々が金毘羅大権現の神威に感銘を受け、競って金品や木材などを寄進しました。
そして、明和7年(1770年)には社殿が再建されました。
【 神仏判然令と新社殿の建築 】
明治2年(1869年)には神仏判然令により、旧社名である「金毘羅大権現」が「金刀比羅神社」と改称されました。
また、平成5年12月からは御鎮座500年を記念して、新しい境内地の整備と社殿の建設工事が行われ、平成8年に完成しました。
社殿の工事は、人間国宝である故西岡常一氏の弟子である菊池恭二氏が棟梁となり執り行われました。
編集前:【 始まりと四国金毘羅大権現の崇敬 】
永正2年(1505年)、現在の宮司家の第3代である威寶院弘栄は、いつも尊崇していた四国の金毘羅大権現の御分霊をこの地に祀ることで始まりました。
それ以来、その神の威厳はいわき市内だけでなく、茨城県北部の人々にも広く尊ばれるようになりました。
【 社殿の焼失と金毘羅大権現の崇敬 】
元和2年(1616年)、天火(落雷)により社殿が全焼しました。
また、宝暦年間(1751年以降)、磐城藩の江戸への年貢米輸送船や沿岸の漁船が相次いで海難に遭い、遭難や難破が激増しました。
この出来事は「金毘羅大権現の崇敬」の象徴として恐れられました。
【 峯順の祈願と再建 】
その時の威寶院の第23代である峯順はこの状況を嘆き、四国の金毘羅大権現に三十三度詣でをし、海難の救済を祈願しました。
その結果、神の威力が明らかに現れ、海難事故は激減し、再び安全な航海が可能になりました。
この喜ばしい結果により、磐城藩主をはじめとする多くの人々が金毘羅大権現の神威に感銘を受け、競って金品や木材などを寄進しました。
そして、明和7年(1770年)には社殿が再建されました。
【 名称変更と新社殿の建築 】
明治2年(1869年)には神仏判然令により、旧社名である「金毘羅大権現」が「金刀比羅神社」と改称されました。
また、平成5年12月からは御鎮座500年を記念して、新しい境内地の整備と社殿の建設工事が行われ、平成8年に完成しました。
社殿の工事は、人間国宝である故西岡常一氏の弟子である菊池恭二氏が棟梁となり執り行われました。