とみさわかんのんどう
富澤観音堂の編集履歴
ご由緒
【 建立と再建 】
109段の石段を登ると、石燈籠を構えて大きな観音堂が建っています。
棟札によれば、延宝8年(1680年)にお堂の建て替えが行われたことが記されています。
そして、48年後の享保13年(1728年)に三間四方のお堂が再建されました。
【 本多忠籌公の老中就任を祝う現在のお堂 】
さらに、18年後の寛保3年(1743年)にまたお堂が建て替えられました。
藩政時代の川部町は泉藩に属しており、名君として慕われた藩主の本多忠籌(たたかず)公が老中役に就任したことを祝って寛政3年(1791年)にはお堂が建て替えられ現在のお堂となったのです。
また寛政6年(1794年)には109段の石段が組まれたようです。
当時の庄屋であった結城氏(代々のお堂の鍵主である蛭田家の祖先)は、再度にわたり建立資金の半額を負担していました。
当時の別当は明治初年に廃寺となった、富沢山無量院長楽寺という寺でした。
【 本尊の特徴 】
本尊の聖観音立像は木造寄せ木造りで、均衡のとれた光背を背にし、蓮華座に立っています。
顔容のおだやかさと指のかたちのふくよかさは、悩める者を招き慈悲を与えるお姿です。
【 地元の協力 】
お堂を維持するために、安永4年(1775年)には屋根替えが行われ、嘉永3年(1850年)にも屋根替えが行われました。
さらに昭和25年(1950年)には屋根を瓦に、昭和54年(1979年)には回廊が修復されました。
これらの修復作業は地元の方々によって行われました。
編集前:【 建立と再建 】
109段の石段を登ると、石燈籠を構えて大きな観音堂が建っています。
棟札によれば、延宝8年(1680年)にお堂の建て替えが行われたことが記されています。
そして、48年後の享保13年(1728年)に三間四方のお堂が再建されました。
【 本多忠籌公の老中就任を祝う現在のお堂 】
さらに、18年後の寛保3年(1743年)にまたお堂が建て替えられました。
藩政時代の川部町は泉藩に属しており、名君として慕われた藩主の本多忠籌(たたかず)公が老中役に就任したことを祝って寛政3年(1791年)にはお堂が建て替えられ現在のお堂となり、寛政6年(1794年)には109段の石段が組まれたようです。
当時の庄屋であった結城氏(代々のお堂の鍵主である蛭田家の祖先)は、再度にわたり建立資金の半額を負担していました。
当時の別当は明治初年に廃寺となった、富沢山無量院長楽寺という寺でした。
【 本尊の特徴 】
本尊の聖観音立像は木造寄せ木造りで、均衡のとれた光背を背にし、蓮華座に立っています。顔容のおだやかさと指のかたちのふくよかさは、悩める者を招き慈悲を与えるお姿です。
【 地元の協力 】
お堂を維持するために、安永4年(1775年)には屋根替えが行われ、嘉永3年(1850年)にも屋根替えが行われました。
さらに昭和25年(1950年)には屋根を瓦に、昭和54年(1979年)には回廊が修復されました。
これらの修復作業は地元の方々によって行われました。