よしみずじんじゃ
吉水神社のお参りの記録一覧
参拝させて頂きました。元々南朝の皇居があった場所とのこと。吉野神宮の御祭神の後醍醐天皇も元々ここに祀られていたのを像を移して遷座祭が行われたとのことです。参拝方法は珍しい二礼十七拍手一拝で17の大神に拝謝を表すためのようですね。世界遺産ですがゆっくり書院を拝観できなかったので次回の楽しみにとっておきます。
権現さんに逢う前にますは こちらで 邪気払い
書院に行ってきましたが
いやー 世界遺産ですよね~
博物館で厳重な整備で見るものが こんなにも身近で見れていいのか?
うへぇ~とか ひえぇ~とか言いながら まわりました
秀吉がここを本陣として 盛大なお花見をしたのが 妙に納得できました(笑)
御朱印 直書き
御朱印 直書き
御朱印 かきおき
御朱印 かきおき
入口前
神社内 一目千本 桜は葉桜になってました 満開の時は 素敵なんだろうなーと
北闕門
邪気払いしてきましたよ~
九字切り なかなか 難しいです(笑)
【𠮷水神社(よしみずじんじゃ)】
𠮷水神社は、白鳳年間(7世紀後半)に金峯山寺の僧坊の𠮷水院(よしみずいん)として役行者(えんのぎょうじゃ)により建立されたと伝えられる。
1185(文治元)年、源頼朝の追手から逃れた源義経と静御前が弁慶らと共にこの𠮷水院に隠れ住まわれた。
1336(延元元)年、御醍醐天皇が京の花山院から吉野へと行幸された際、この𠮷水院を南朝の皇居とされ、ここに住まわれた。
1594(文禄3)年、豊臣秀吉が吉野で盛大な花見の宴をされた際、𠮷水院を花見の本陣とされ、数日間滞在された。
𠮷水神社にある書院は、日本住宅建築史上最古とされ、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の登録資産の一つ。源義経・後醍醐天皇・豊臣秀吉それぞれの時代の遺品や宝物が書院内に残されている。
-祭神ー
①後醍醐天皇…第96代天皇・南朝初代天皇(在位:1318-1339)。神徳:学芸上達・諸願成就。
②楠木正成…南朝の功臣・忠臣。神徳:難関突破・開運招福。
他1神(𠮷水宗信法印公)
~吉野を巡る(3/7)~
秀吉の一目千本で有名な神社です。手前の方は散っていますが、奥の方まで咲く桜のスケールに感動しました。
【鳥居】
【世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」】
【参道】
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【表門】
【一目千本】
【一目千本】
【一目千本】
【中門】
【境内】
【𠮷水院庭園】
【𠮷水院庭園】
【手水舎の龍】
【書院】
国の重要文化財。
【北闕門(ほっけつもん)】
邪気祓い所。
【書院】
【書院】
【書院】
【書院】
【書院】
【書院】
【書院から見る金峯山寺蔵王堂】
【書院】
【弁慶の力釘】
【弁慶の力釘】
弁慶が力試しに二本の釘を親指で石へ押し込んだもの、と伝えられている。
【御朱印】
【御朱印】
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つ
ですが、色々と特色のある神社です。
①山門をくぐると秀吉が一目千本と感動した絶景が拝めます🌸(今回の目的の1番)
②参拝作法「2礼、17拍手、1拝」
神様が17 神おられるから17回拍手するそうですが、お参りに時間がかかりました(笑)
③ペットは家族の一員として犬と一緒に参拝可能。さらに犬好きの宮司さんにより犬の無病息災を願う祈祷をして頂く事も可能です。私も大事なペット用のお守りをいただきました。
④ 2001年に不審火で焼失した勝手神社のご神体が遷座しており、二社参詣として御朱印がいただけます。
楽しめますので是非!
一目千本桜🌸
山門
二社参詣御朱印
参拝作法
展示案内
世界遺産
犬の参詣について
吉野山桜と参拝、最後は吉水神社。
金峯山寺からすぐで、東南院の向かいです。秀吉公の一目千本で有名ですが、ものすごい賑わってました。一目千本は入山料を払って境内に入らないと見えません。天気もよかったので、息を呑むような桜が見れました。
また世界遺産の書院も拝観できます。
近隣の勝手神社が火事で損害を受け、こちらに仮にお越しになっているそうです。御朱印もコラボでした。
鳥居。ここから参道を下っていきます。
山門
一目千本
書院。
拝殿。ここでは二礼十七拍一拝です。十七神いらっしゃるからだとか。皆さんの拍手が境内に鳴り響いてました。ちょっと楽しい!
書院の見事な襖絵。
秀吉公愛用の金屏風。
金峯山寺を後にして、同じく世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成遺産の一つ、𠮷水神社を参拝です。 元々は白鳳年間(650年~654年:通説)に役小角/役行者(えんのおづぬ/えんのぎょうじゃ)が金峯山寺の僧坊・吉水院(よしみずいん)として建立したと伝えられます。 数多くの歴史的逸話が残る神社で、日本最古の書院建築として名高い書院は拝観料が必要ですが一見の価値があります。 まずは、源義経と静御前が最期の時を過ごしたとされる「潜居の間」。 文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした義経でしたが実兄である源頼朝から謀反を疑われ鎌倉凱旋を許されず、さらに京に戻ると頼朝からの刺客に襲われます。 義経は追手を逃れて九州に渡ろうとするも失敗に終わり、摂津国・天王寺近辺に戻された後、静御前や弁慶らとともに吉野山に身を隠します。 その際に5日間程隠れ住んだ場所と伝えられているのが吉水院です。 義経はさらに追手から逃れる為に山伏の姿に扮して大峰山へと入り、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼って奥州・平泉に落ち延びます。 しかし大峰山は当時女人禁制であった為、静御前とはやむなくここで別離を遂げて、その後、二人が再び会うことはなかったと伝えられています。 𠮷水神社は現存する南朝唯一の行宮としても有名で、書院内には「後醍醐天皇玉座の間」と言われる部屋もありました。 正慶2年/元弘3年(1333年)隠岐を脱出した大覚寺統・後醍醐天皇は、楠木正成(くすのきまさしげ)や新田義貞(にったよしさだ)、足利尊氏(あしかがたかうじ)ら武士団の協力を得て鎌倉幕府を滅亡させるも、その後の建武の新政は失敗に終わり、足利尊氏と対立することとなります。 これが所謂、建武の乱で一度は北畠顕家(きたばたけあきいえ)や新田義貞ら後醍醐天皇側の軍に敗れた足利尊氏は九州に逃れるも、建武3年/延元元年(1336年)、湊川の戦いで新田義貞や楠木正成ら後醍醐天皇側の軍を圧倒し上洛して京都を制圧、光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し(北朝)、建武式目を制定して室町幕府を設立します。 一方、後醍醐天皇は和睦の直後に吉野に逃れ、新たな朝廷(南朝)を創立し自らの皇位の正統性を主張します。 ここに、およそ半世紀続くことになる南北朝時代が始まることとなり、吉野に入った後醍醐天皇が吉水宗信(よしみずそうしん)の援護の元、南朝の皇居としたのが、ここ吉水院とのことです。 また「太閤秀吉花見の間」は文禄3年(1594年)豊臣秀吉がその権威を満天下に示すべく、吉野で盛大な花見の宴を行った際にその本陣とされました。 現在も残る名勝の庭園は、その際に秀吉自らが造ったものであるとされています。 尚、吉水院は神仏分離令発令後の明治8年(1875年)、後醍醐天皇、楠木正成、吉水院宗信法印を祭神とする「𠮷水神社」と改められました。 この𠮷水神社、歴史好きには堪らない参拝となりました。 あと、𠮷水神社の吉の字は口の上に土かんむり、参拝の際は二礼、十七拍手、一拝です。
吉水神社・鳥居と神社名碑
吉水神社・表門
吉水神社・由緒書
吉水神社・手水鉢
吉水神社・「世界遺産 南朝皇居 𠮷水神社書院」と彫られた石碑
吉水神社・拝殿
吉水神社・拝殿
吉水神社・弁慶の力釘
吉水神社・弁慶の力釘
吉水神社・蛭子神社
吉水神社・吉水院庭園
吉水神社・吉水院庭園
吉水神社・狛犬(阿)
吉水神社・狛犬(吽)
御朱印
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