ぞうじょうじ|浄土宗| 三縁山
増上寺のお参りの記録一覧(4ページ目)
高知~羽田空港に着いてから、増上寺におまいりに行きました。
お寺用の御朱印帳が残り少なくなったので、かっこいい増上寺の御朱印帳をいただいてきました
御朱印帳の最初のページに書かれていた御朱印です。
家康の遺言で葬儀を行った場所。
久能山、日光、大樹寺、そして増上寺。遺言コンプリート達成。
如何にも東照宮な門。その壮麗さに圧倒されるが、そこは台徳院霊廟惣門と言う代物。増上寺手前。
隣の門は渋めだが威厳がある。が、これは黒門と言う脇の門。
その隣の馬鹿デカい門が入り口。三解脱門。
全体を見るには、一度信号を渡る必要がある。
脇の建物からハシゴが掛かっている。大樹寺もそうだった。
この門を眺めているだけで楽しい。
中には石碑やら墓やらが満載。
隅々まで散策した者しか発見出来ない宝の山。
熊野神社や千体地蔵もあれば、聖鋏観音や四菩薩像などもある。
大殿は本殿に当たるが、名の通りデカい。中に入って良いのかダメなのか曖昧。
地下が宝物殿だが、火曜定休日。
悔しいので、翌日も来た。
無料コーナーは、仏舎利。
有料コーナーは、絵と模型。
量より質。
絵は、500羅漢図。なかなか濃い目のキャラクター。
模型は、台徳院本殿。
仏舎利は、釈迦の遺灰と言う貴重さに加えて、仏壇が芸術。
イチオシは模型。10分の1スケールでかなり大きい上に、細かく再現されている。
隣の安国殿は、家康を祀っている。細かい所まで見事な装飾。
ここに社務所が含まれる。
おみくじ、御守り、御朱印などはこちら。
裏が徳川将軍家墓所。ここも火曜定休日。
2代、6代、7代、9代、12代、14代。古本屋の漫画みたいな揃い方。
皇女和宮と合祀塔も一緒に並んでいる。
秀忠、家宣、和宮の墓が印象に残った。
大納骨堂や茶室など、周りの建造物も見る価値あり。
来るべき素晴らしい寺。
三解脱門
大殿
安国殿
詠唱発祥の地
三解脱門近影
ワイルドな石燈籠
め組の墓
日本一大きい鐘
お〜いお茶
聖鋏観音
龍 猪目 天女 龍 獅子 ゴージャス灯籠
徳川将軍家墓所の門だけど入り口は別
千体地蔵
額縁にも猪目
大納骨堂
シュっとした狛犬
文殊菩薩
足元に
普賢菩薩
足元に
秀忠公
家宣公
皇女和宮
二重猪目
猪目ゾーン
赤が映える
徳川将軍家墓所
宝物展示室
仏舎利
三解脱門裏側
台徳院霊廟惣門
裏からコッソリ象
ビッグフット
金シャチ
鬼瓦周辺
徳川将軍家墓所はこちら
鬼瓦列車
浄土宗大本山にして徳川家菩提寺🤗京浜四本山のひとつでもありますね。さすがに人は多かったですが今年後半は大河ドラマの影響でさらに増えるのかしら?
大門
三解脱門
観音菩薩立像
水盤舎
鐘楼堂
聖鋏観音
大殿前参道
増上寺会館と光摂殿
大殿
扁額
勢至丸様
光摂殿
安國殿
西向聖観世音菩薩
安国殿と黒本尊由緒
景光殿表門
表門由緒
圓光大師堂
圓光大師堂由緒
観音菩薩立像
貞恭庵
経蔵
慈雲閣
黒門
東京都港区④
前回は80年振りの大改装中で、本堂の外見は見られませんでした。今回は本堂の中を改装中のようで、本堂に入れませんでした。いつ完成するんだろう??
徳川家!
境内もご本堂も大きいです。後ろに東京タワー。
本堂工事中…
閉まってます。。
ホテルニュージャパン火災犠牲者慰霊 聖観世音菩薩です。
4
増上寺は、浄土宗の七大本山の一つです。酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建された。
増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所が設けられている。
~公式ホームページより抜粋~
増上寺といえば、箱根駅伝でお馴染みですが、東京マラソンも日比谷通りがコースの一部となっています。2019年東京マラソン参加時に、遥拝させて頂きましたが、今回ゆっくり参拝出来て、ただただ感謝です🙏
三解脱門
煩悩から解脱した覚りを開くための三種の修行「空門」、「無相門」、「無願門」の三門
鐘楼堂
「今鳴るは芝か上野か浅草か」で有名ですね❗️
大殿
御本尊は阿弥陀如来さま
安国殿
徳川家康公の法号「安国院殿」からとっている
千躰子育地蔵菩薩
圓光大師堂
貞恭庵
皇女和宮さまゆかりの茶室
光摂殿
経蔵
慈雲閣
黒門
直書きで頂きました
一筆写経で頂きました(書置き)
たくさんの人がやって来る前に....
これまで、行けていなかった増上寺を訪ねました。
東京タワーが近くて、びっくり (O_O)
門をくぐると、開けました。
青空くっきり*\(^o^)/*
お休み処がありました。
今回は、お腹いっぱいだったので、横目で見つつ、素通り....
....残念.... . (T_T)
限定御朱印がいただけるようだったので、宝珠院様から芝東照宮様でお参りをして増上寺様へやって来ました😊閉所時間が近かったので、さっとお詣りをすませ御朱印を拝受してから、あらためてゆっくりお詣りしました😄 本日はここまで5社5寺お詣りさせていただきました。
☆三解脱門(三門)☆
増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、当山の中門にあたり(表門は大門)、正式名称を三解脱門といいます。煩悩から解脱した覚りを開くための三種の修行「空門」「無相門」「無願門」の三門を三解脱門といい、またこれを通称「三門」ともいいます。慶長16年(1611年)徳川幕府の助成により、幕府大工頭•中井正清とその配下により建立。元和7年(1621年)強風により倒壊するも、元和8年(1622年)に再建。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。 三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のことです。建築様式は三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、美しさを見せています。二階内部(非公開)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。この門をくぐると、念仏を称えて阿弥陀様と親しく近しい縁を結び、「むさぼり、いかり、おろかさ」といった煩悩から解脱した安らぎの世界「極楽浄土」への往生を願う空間が広がっています。
☆聖観世音菩薩☆
☆水盤舎☆
この水盤舎は、もと清揚院殿(家光公三男•綱重)の御霊屋にあったものです。徳川家霊廟建造物として現存する数少ない遺構のひとつです。昭和53年3月、現在地に移築されました。
☆鐘楼堂☆
寛永10年(1633年)の建立ですが、現在の鐘楼堂ほ戦後に再建されたものです。鐘楼堂に収められている大梵鐘は、延宝元(1673年)にあまりの大きさに7回の鋳造を経て完成し(東日本で最大級)、江戸三大名鐘の一つに数えられています。 朝と夕べ、2回撞く鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす108の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く6度の誘いでもあります。 江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」「西国の果てまで響く芝の鐘」等と謳われ、庶民に親しまれました。
こちらは前に行ったときに鐘つきの時間になりました😊
☆大殿☆
昭和49年(1974年)、大本山の念仏の根本道場として、あらゆる儀式法要が行えるよう斬新な設計と意匠で、戦災に遭い焼失した本堂が再建されました。首都圏では最大級の御堂で、石段を登りつめた二階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に増上寺宝物展示室があります。
本堂のご本尊阿弥陀如来(室町期製作)は、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られ、参拝される方々の厚い信仰をあつめています。
☆安國殿☆
戦災で焼失した大殿の代わりに仮本堂としていた建物を、昭和49年(1974)年、新大殿完成の折りに境内北側に移転し、御堂「安国殿」としました。老朽化のため、平成23年(2011年)法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として徳川家康公が成し遂げた"天下泰平の世(安らかな国づくり)"を願い、新しい安国殿が建立されました。 本堂中央に本尊である、恵心僧都の作と伝えられる秘仏「黒本尊」(御開帳•黒本尊祈願会、正月•5月•9月の15日)は、家康公が深く尊崇し、そのご加護により度重なる災難を除け、戦の勝利を得たという霊験あらたかな阿弥陀如来像で、勝運•厄除けの仏様として江戸時代以来、広く人々の尊崇をあつめています。 また、御前立の阿弥陀如来立像、脇陣には家康公肖像画、徳川家御歴代並びに御一門の尊霊の御位牌、皇女和宮さまの等身大の御像等が祀られており、安国殿は当山の祈願所として親しまれています。
☆西向聖観世音菩薩☆
鎌倉時代、執権•北条時頼公が観音山(現:東京タワー)に辻堂を建て、鎌倉街道(現:六本木方面)に向けて安置した石像の観音さまです。子育て•安産に霊験あらたかと伝えれています。昭和50年(1975年)浄土宗開宗八百年記念の境内整備事業として、現在の安国殿前に尊像を遷座、同55年(1980年)1月に観音堂落成。江戸三十三観音札所で聖観音像は子育て開運の利益広大と言われています。
☆鋳抜門(徳川将軍家墓所)☆
鋳抜門は旧国宝で、もと文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)の宝塔前『中門』であったものです。左右の扉に5個づつの葵紋を配し、両脇には昇り龍•下り龍が鋳抜かれています(青銅製)。規模は勿論のこと、その荘厳さにおいても、日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。
☆四菩薩像☆
☆大納骨堂☆
☆清浄観世音菩薩☆
限定御朱印 『安國院殿』
今回は、当日向かう電車の中で、五木寛之先生の百寺巡礼「増上寺」の項を読んでいたので、予備知識はバッチリであった。
五木寛之先生は、増上寺についての歴史を87世法主の寺内大吉先生(直木賞作家でもある)に直接お伺いして執筆された。
三縁山広度院増上寺が正式な名称だ。三縁山の山号は、「親縁・近縁・増上縁を明かす」という唐の僧、善導の教えに基づいているという。善導は、浄土宗を大成した人物として知られ、その教えは日本における浄土宗の開祖・法然に大きな影響を与えた。もちろん、増上寺は浄土宗のお寺である。
江戸時代、この門は一般の参詣者に開放されていて、人々はここに登って東海道を見下ろし、更には品川沖やお台場までも眺めて楽しんだという。あの黒船来航の時も、初めて目にする巨大な船をここから観察していたらしい。
酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建された。聖聰は、地元の有力者の支援を受けて、関東に念仏を広めていったのである。
こうして関東一円の民衆の間に、浄土宗は浸透していった。そして、その中心に増上寺はあった。そうすると、家康が江戸に入ると同時に増上寺を菩提寺としたのは、念仏を信じる人びとの共感を得る為であったと考えられそうだ。
これから江戸を本拠地にして関東を支配しようとしていた家康は、増上寺の影響力をおおいに活用できるはずだ、と踏んだのではあるまいか。
家康の江戸城入りが、民衆にすぐに受けいらられたとは言い難い。それどころか、新しく支配者になった徳川家康に対する反感が募っていた節もあったらしい。
だから、家康は最初に江戸に入った時、荒れ果てた江戸城の改修よりも、まず町づくりに力を入れたとされる。しかも、その町づくりは反徳川色の強い江戸の内部には手をつけず、海面を埋め立て、新しい町を作り出すことでなされた。
現在の霞が関、丸の内、新橋、日本橋などの原型は、この時に作られたという。つまり、まず家康は、江戸城に出入りする武士と、その生活を支える最小限の商工業者が住む町を、土地を埋め立てることで一から作りだしたのだ。
更に、家康は町民感情をなだめるために、古い寺社を保存した。また、そればかりでなく、増上寺のみならず、当時の多くの寺は、庶民の日常生活と密接に結びついていたからだ。
家康は、庶民の信仰を統一しようとしたり、コントロールしようとはしなかった。キリスト教徒こそ厳しく弾圧したが、その他の信仰については誰がどんな宗教を信じようと自由であるとした。いわば、多神教、多仏教的な方針が守られたのである。
法然が熱烈に説いたのは「念仏」として、その目に見えない大きな生命力を実感する事、この世の闇を照らす光に触れることだったのではないか。(五木寛之先生の考え)
京都から新しい都、東京に移った明治天皇は、真っ先に増上寺を勅願時とした。
徳川家の菩提寺だった寺だというのに不思議な気がするが、ひょっとすると明治天皇も、江戸に入った時の徳川家康と同じように、人心掌握の為に増上寺を味方につけたかったのかもしれない。
けれども、その増上寺でも明治の神仏分離令の動きから逃れることは出来なかったようだ。廃仏毀釈の結果、僧侶たちが神主のような袴をはくようになった。それまで僧侶は墨染の衣をまとうものとされていたが、明治以降は白い着物を強いられたのである。
浄土への往生を約束し、民衆の信仰を集め続けた寺も、時代の波に大きく翻弄されたのだ。
ここまでは、五木寛之先生の素晴らしい文章を引用させていただいた。
とにかく、素晴らしいお寺であった。
江戸時代以降は徳川将軍家の菩提寺となった増上寺🙏
大きな三門をくぐり境内に入ると厳かな雰囲気。正面には東京タワーを背景に大殿(本堂)が構えています🙏
午後の参拝でしたので、西陽がさして
景観が素晴らしかったです😊
安国殿では一年を通して、黒本尊、南無阿弥陀仏、阿弥陀如来、西向聖観世音菩薩の御朱印がいただけます。
お正月とあって境内のテントでも御朱印を頒布されておりました。
昨年、増上寺御朱印帳に直書きの「黒本尊」と書き置きの「南無阿弥陀仏」をいただいたので、今回は「令和5年正月限定」と「阿弥陀如来」「西向聖観世音菩薩」の3点御朱印を拝受しました😃
📷2023/1/7
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