おおやまとじんじゃ
大和神社のお参りの記録一覧(2ページ目)
知人から聞き、参拝させていただきました。
戦艦やまとゆかりの地、とても感慨深いものがありました。
先人たちの行動により、私たちも生かされていることを改めて感じました。
本当に素晴らしい場所でした。
御朱印
JRまほろば線の三輪駅から、長柄駅まで2両連結の電車に乗車。長柄駅から大和神社へお参りしました。ちなみに長柄駅は無人駅で、電車も一番前からしか降りれないので、慣れていない方は注意が必要です。
ほんとになにもない、のどかな田園の風景の中、案内表示がしっかり出ていたのでまようことなく到着。「おおやまとじんじゃ」と読みます。「戦艦大和」に分祀されていた神社で有名です。
参道の長さは戦艦大和の長さとほぼ同じだそうです。
悲惨な最後を迎えた戦艦大和のお話を思い出し、なんだか物悲しい気持ちになりました。
戦争を決して肯定するのではなく、平和を語り継がれる場所であってほしいと思いました。
手書きでいただきました。「大」を強調。
長柄駅ホームの乗車口案内。鹿の絵が奈良って感じですね。
駅から神社への様子。のどかな畑や稲刈り後のたんぼの風景。
「戦艦大和」ゆかりの神社の石碑。
御朱印と一緒にいただいた「しおり」。御朱印帳の大きさに合わせたサイズで、次に記帳いただく場所に挟んでおくと便利です。これから利用させていただきます。
説明板です。
ご本殿です。
大きな絵馬。
戦艦大和との関係について・・・
奈良県天理市にある大和神社を参拝いたしました。 大和神社と書いて、「おおやまとじんじゃ」と読みます。 主祭神は倭大国魂神(日本大国魂大神~やまとのおおくにたまのかみ)、それに八千戈神(やちほこのかみ)、御年大神(みとしのおおかみ)の三柱を祀ります。 その歴史は古く、「日本書紀」の記述によれば、崇神天皇6年(紀元前92)、この地で蔓延した疫病や謀反を企てる者の出現を憂えた天皇が、もともと宮中(磯城瑞籬宮~しきのみずかきのみや)に一緒に祀られていた倭大国魂神と天照大神(あまてらすおおみかみ)が同殿共床であることが原因との考えから、両神をそれぞれ宮中の外で祀らせるようにしたことに始まります。 天照大神は皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)により倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)へ一時移されたのち、所謂「元伊勢」と呼ばれている場所を転々として最終的に伊勢の地に遷ります。 一方、倭大国魂神は皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)を勅して、倭穴磯邑(やまとあなしむら)大市の長岡岬(ながおかみさき)に祀ることにしたのですが渟名城入姫命の髪は抜け、体は痩せ細ってしまい、祭祀を続けることができなくなった為、大倭直(やまとのあたい)の祖・市磯長尾市宿禰(いちしのながおちのすくね)に命じて新たに神地を定め、祀り直されたのが大和神社の起源のようです。社伝によると、寛平9年(897年)に正一位の神階が授位され、延喜式神名帳に「大和坐大国魂神社 三座」と記載される式内で、その三座はいずれも名神大社に格付けされました。 また、白河天皇の時代(平安時代中期)には、当初から二十二社の中七社に、明治4年(1871年)には官幣大社に列せられています。 かつては天照大神を祀る伊勢神宮に匹敵する広大な社領を有していましたが、平安遷都や藤原氏隆盛などにより徐々にその勢力は衰えていき、さらには度重なる火災で神領の書類をすべて焼失、中世ごろには社領を全て失ってしまいました。 私はあまり社格云々でその神社を語るのは好まないのですが、同じ奈良にある石上神宮や大神神社と並ぶ序列であり日本最古級の神社であったにもかかわらず現在では一見するとただの村の鎮守社かと思える佇まい、と感じました。(それはそれで雰囲気は嫌いじゃないのですが…。) 境内には「戦艦大和ゆかりの神社」なる記念碑があり、戦艦大和の最期をともにした殉死者2,736柱の御霊が末社・祖霊社に合祀されています。 戦時中、日本海軍の軍艦の艦内には必ずと言っていいほど神社が祀られ、多くの場合は艦名に因んだ神社から分祀することが多かったそうで、戦艦大和の艦長室には大和神社祭神の分霊が祀られていました。 沖縄への上陸を開始したアメリカ軍を撃退すべく出撃した世界最大級、最強と謳われた戦艦大和でしたが、海上特攻(沖縄の浅瀬に自力座礁し、浮き砲台として陸上戦を支援する)という無茶な作戦は、容易に敵側に察知されていて、目的地にたどり着く前にアメリカ軍の機動部隊の猛攻撃を受け、その戦闘力を発揮することもなく、昭和20年(1945年)、鹿児島県坊ノ岬沖にてあえなく撃沈されてしまいます。
大和神社・神社名碑と参道入り口の鳥居
後で知ったのですが、大和神社の参道は戦艦大和の全長とほぼ同じだそうです。
大和神社・由緒書
大和神社・二の鳥居
大和神社・手水舎
大和神社・手水舎
柱に「伊勢へ七たび、熊野へ三度、大和さんへは月まいり」と書かれていました。 どこかで聞いたフレーズですね(笑)。
大和神社・拝殿
大和神社・拝殿
大和大明神と書かれた扁額。 奥に見えるのが神門。
大和神社・摂社/高龗神社
大和神社・摂社/高龗神社
大和神社・摂社/増御子神社
大和神社・摂社
朝日神社(奥)、事代主神社(中)、厳島神社(手前)
大和神社・「戦艦大和ゆかりの神社」石碑
大和神社・末社/祖霊社
戦艦大和第2艦隊戦没者霊を祀ると共に、大国主神・氏子崇敬者が鎮まる。
大和神社・戦艦大和展示室
大和神社・戦艦大和展示室
戦艦大和の模型などが飾られていました。
御朱印
「日本書紀」によれば、崇神天皇6年(紀元前92)疫病の蔓延を憂えた天皇は、宮中に一緒に祀られている天照大神と日本大国魂大神が対立することが原因と考え、天照大神は皇女豊鍬入姫命により旅をかさね伊勢に遷るという有名な話し。。
日本大国魂大神は皇女淳名城入姫命にと別々に祀らせるが、間もなく髪が落ち体が痩せ祭祀が続けられなくなる。
この時、倭迹迹日百襲姫命の神託により市磯長尾市を神主として祀れば天下は鎮まると、この長尾市による祭祀がが大和神社の創建のあらましと伝えられるが、祀り直された鎮座地は諸説あって混沌としている。
伊勢神宮に次ぐ広大な神領を得て隆盛したが、その後は平安京への遷都や兵乱などで衰微。
不遇の時代を乗り越え、1871年(明治4)に官幣大社に列せられ社殿を一新して現在に至ります。
皇祖神天照大神が早々と伊勢に遷されたのに対し、大和神社の大国魂大神は当時の政治経済の中枢近くに国土の守護神として祀られていたことは、上代においていかに重要視されていたかが想像できます。
一の鳥居前の道路
江戸時代も終わりに近い元治元年(1864)10月27日の朝、大和神社事件が発生。
社前で「なむ天理王命」と声高らかに神名を唱え、太鼓や拍子木・鈴などを打ち鳴らしたと。
その日は特別な祈祷をしていた時であり大騒ぎになった。
それでせっかく盛り上がっていた教㔟が萎えて、一部の人が信仰から離れたと伝えられるが、当時の社会情勢・官憲と一般庶民の力関係においてしかたなかったと想われます。
現在の御由緒には、「天理教中山みき教祖の誕生地が、近くの三昧田町にあります」と記載され尊重されているようです。
一の鳥居
参道は戦艦大和の全長とほぼ一致する約260m。
二の鳥居
増御子神社
二の鳥居左手に猿田彦神と天鈿女命、市磯長尾市氏命をお祀りする。
市磯長尾氏命は、主祭神の子孫で、この神社の初代祭主。
大和祖霊社
大和神社の祭祀を担ってきた旧宮司家と、氏子筋にあたる大和神道御霊之社の各家々祖霊を祭祀するために創建。
明治という国家管理の時代に、一般国民の先祖御霊を祭祀する祖霊社が官幣大社境内地内に建設許可されたのは、大和神社のみです。
昭和二十八年に戦艦大和関係戦没英霊が合祀。
拝殿
本殿三殿
春日造り様式で庇を付けた檜皮葺の三殿が並列。
中央の第一殿の祭神が日本大国魂大神。現在の社殿は1872年(明治5)に再建。
海外渡航の安全守護の御利益あり。奈良時代には遣唐使が渡航の安全祈願に参拝。
本殿は南西を向いているが、その方向には水神を祀る龍王山の山頂を指している。龍王山は各地にみられます。
高龗たかおかみ神社
高龗神社は、山の上に降る雨を司る水神とされている神。
この高龗神社が全国に何千とあるであろう水神を祀る神社の総本社とのことだが。貴船神社や丹生川上神社を差し置いてである。
丹生川上神社は別宮であったとか、大神神社の摂社である狭井神社も、かっては高龗神社の摂社だったらしいと。
磐座
摂社三座
左から市杵島姫命を祀る厳島神社、事代主神を祀る事代主神社、天照坐皇大祖を祀る朝日神社。
戦艦大和にゆかりのある神社です。しずかながら雰囲気を感じました
御朱印頂きました
立派な本殿です
戦艦大和の石碑がありました
戦艦大和の模型があります。無料で見ることが出来ました
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