ぐみょうじ|高野山真言宗|瑞応山
弘明寺のお参りの記録一覧(2ページ目)
正式名:瑞應山蓮華院弘明寺
通称:弘明寺観音
神奈川県横浜市南区弘明寺町にある高野山真言宗の寺院で、瑞應山蓮華院と号し、横浜市内最古の寺院である。
本尊は木造十一面観音立像(通称:弘明寺観音)で、国の重要文化財となっている。
寺名は、鎌倉時代には「求明寺(ぐみょうじ)」と表されていた。その後、呉音で同じ「ぐ」と読む観音経偈文にある「弘誓深如海(ぐぜいじんにょかい)」の弘の字を当てて弘明寺に改めたといわれている。
先月21日に帰省したばかりなのにまた帰省💦
早めに家を出発してお詣りに行きました。
こちらも幼少の頃によく行ってたお寺様です😊
【弘明寺】
今から1300年近く前、元正天皇の養老5年(721年)にインドの善無畏(ぜんむい)三蔵法師が渡来、それから17年を経て聖武天皇の天平9年(737年)、天下に悪病流行の際、河内和泉の国の僧行基が勅命を奉じて、天下泰平祈願のため全国を巡錫(じゅんしゃく)し、当山の浄域に草庵を作り、一刀三礼(一刀刻む毎に三度礼拝する)の至誠を尽くして彫刻祈願されたのが、現在の御本尊十一面観世音菩薩様です。
嵯峨天皇の弘仁5年(814年)には、弘法大師が回国の際、一千座の護摩を焚いて庶民の除災招福を祈願したと言われています。
そして寛徳元年(1044年)3月10日、光慧上人により瓦葺き本堂が建立されました。御本尊様の彫刻予想年代とこの本堂建立の年代がほぼ一致することから、この頃が実際の開山と思われています。
鎌倉時代には、「求明寺」と称されていたものを、観音経偈文(かんのんぎょうげもん)の中の「弘誓深如海(ぐぜいじんにょかい)」の「弘」の字をとり、「求」を改めて現在の弘明寺となりました。
ー弘明寺HPよりー
☆仁王門☆
仁王門は、江戸時代に再建されたもので平成14年(2002年)に改修工事が行われた。「瑞應山」の扁額は享保7年(1722年)に没し、徳川幕府に仕えた書家佐々木玄竜の書。
☆金剛力士像(仁王像)☆
平成10年(1998年)11月9日 横浜市指定有形文化財
仁王像は、13世紀後半、早期運慶様を尊守する鎌倉仏師の作。神奈川県下に遺る最古の中世作。平成13年(2001年)に修理が行われた。
☆御本堂☆
寛徳元年(1044年)3月10日、光慧上人により本堂が建立され、開山された。現在の本堂は、明和3年(1766年)に智光上人により再建されたもの。光慧上人が建立した時の古材である、チョーナ彫の床板などが使用されている。
昭和51年(1976年)に茅葺より銅板葺に改修された。間口6畳半、奥行き6間一尺。
【御本尊】 十一面観世音菩薩立像
大正4年(1915年)8月10日 国宝指定
昭和25年(1950年)8月29日 国指定重要文化財
平安時代中期の作。像高181.7cm、ハルニレの木の一木(いちぼく)造り。 関東に遺る鉈(なた)彫りの典型的な作例として有名である。
※鉈彫りとは、丸ノミの彫り痕を像表面に残した特殊な彫り口の作品のこと。
御本堂の中は撮影禁止なので建物だけ撮りました📸
☆木造 黒漆花瓶☆
昭和63年(1988年)11月1日 横浜市指定有形文化財
室町時代初期の作。御本尊様に常花として供えられたもの。
「亜」と言う字の形をしており、欅(けやき)材を轆轤(ろくろ)で挽いて成型した4つの部分を組み立て、黒漆を全面に塗装した。木造で大型の花瓶であり、他に類を見ない珍しさがあることから、当時の弘明寺の伽藍(がらん)が大規模であったと予想される。
☆手水舎☆
ゾウさん🐘とフクロウさん🦉がいます😆
☆鐘楼堂☆
平成9年(1997年)11月4日 横浜市指定有形文化財
梵鐘は、鋳銅製の和鐘で江戸時代中期の寛政10年(1798年)、阿闍梨(あじゃり)秀光が願主となり再々造したもの。江戸神田に住む西村和泉守藤原政平という鋳物師(いもじ)の作で、川崎大師平間寺の梵鐘も同人の作。
現在の鐘楼堂は平成10年(1998年)に改修されました。
☆地蔵堂☆
鐘楼堂の両側にいらっしゃいます😊
☆七ツ石☆
善無畏(ぜんむい)三蔵法師が渡来の際、当山の霊域を感得し、陀羅尼(だらに)を書写して結界を立てた霊石。
尾りょ石と刻してある「尾閭石」や大黒天の袋に似ているので名付けられた「福石」がある。
七ツ石の後ろ側にいらっしゃいます😊
☆大師堂☆
真言宗の宗祖、弘法大師を奉安している。弘法大師が弘仁5年(814年)に当山を訪れ、聖天(大聖歓喜天)を彫り、山上の奥の院に奉り、衆生救済のために一千座の護摩を修法したと伝えられる。弘法大師は今でも高野山奥の院に住み、人々の幸福を祈り続けている。
お経をあげているところでした🙏🏻
左 弁才天
右 閻魔大王
左 奪衣婆
右 役行者
☆聖天堂☆
弘仁9年(818年)、弘法大師が回国の際、この地に不思議な力を感じて、聖天(大聖歓喜天)を彫り安置し、一千座の護摩を焚いて庶民の幸福を祈願したとされる。
☆身代地蔵菩薩☆
平成13年(2001年)6月、京浜急行電鉄会社設立100周年を記念して、全ての人々の病気平癒•身体健全を祈願するため奉納された。身体の悪いところと同じ場所をタオルやハンカチでさすり祈願することで、自身や家族の身体を癒してくれる。
☆六地蔵☆
☆楓関門☆
應永18年(1411年)建立。
明治41年(1908年)新堀源兵衛氏修築。
大正12年(1923年)9月1日、関東大震災で倒壊後、昭和4年(1929年)再築。
平成16年(2004年)平成の大修築にて修復。
☆弘明寺稲荷☆
☆お稲荷様☆
☆おまけその1☆
御守り等と一緒にありました😊
『無病息災·ふき味噌』と『身体健全·にんにく焼き味噌』
☆おまけその2☆
懐かしい😆まだこうゆうのあるんですね〜
子供の頃は薬局屋の所にゾウさんの乗り物よく見かけましたぁ
通年御朱印 『坂東三十三観音第十四番·十一面観世音菩薩』
背景は『横浜ベイクォーター』3Fのメイン広場で開催中(12月25日迄)のクリスマスフォレスト
通年御朱印 『大黒天』
月替わり御朱印12月 『辨財尊天』
二回目の参拝です。
一度目に行った時はホトカミも登録しておらず、写真も全然撮らなかったけど、今日は色々撮ってきました。
本堂内は撮影禁止です。
身代わり地蔵、閻魔像、奪衣婆像、大黒天、馬頭観音など色々あります。
御朱印も十数種類あるので、何度かお参りして集めるのも良いかもしれません。
今回は御朱印帳に唯一直書きしてもらえるものと、書き置きの9月限定の御朱印を頂きました。
各500円です。
因みにオリジナル御朱印を購入すると、購入者限定御朱印が頂けるようです。
山門
山門
仁王像 阿形
仁王像 吽形
六地蔵
本堂 扁額
階段
本堂
常香炉
七ツ石
地蔵堂
鐘楼
大聖歓喜天
扁額
地蔵堂
身代わり地蔵 由来
身代わり地蔵
馬頭観音
坂東三十三観音 第14番
武相不動尊 第18番
宗派は高野山真言宗、ご本尊様は十一面観音菩薩様。
京浜急行本線弘明寺駅から徒歩3分くらいのところに居られます。
横浜では最古のお寺だそうで、創建は天平9年(737年)だそうです。
山門から向かって商店街が伸びていますが門前町ではなく戦後の闇市からのようです。
横浜で城熱祭というお城のアートイベントがあったので夏は横浜近辺をぶらぶらしようとして
まず最初にお詣りすることにしました。
本堂です。御朱印はここで頂くことが出来ます。
こうやくんが可愛いですね。
本堂向かって左側には聖天様が居られます。
わりと最近に浅草で聖天様にもお詣りしたこともあってなんか嬉しかったです。
本堂向かって右側には鐘楼があります。
今は使うことはできませんが手水舎がフクロウさんですね。
反対側は象さん。可愛いですね。
大師堂です。
屋根の苔生し具合がまたいいですね。
身代わり地蔵さんです。石段の中腹に居られます。
山門をくぐったところには六地蔵さんが居られます。奥に小さいお地蔵さんが居られて可愛いですね。
石段はこんな感じ。いい雰囲気でした。
山門には仁王様がおられます。
力強いですよね。
大きな提灯もありました。
今から1300年近く前、元正天皇の養老5年(721年)にインドの善無畏(ぜんむい)三蔵法師が渡来、それから17年を経て聖武天皇の天平9年(737年)、天下に悪病流行の際、河内和泉の国の僧行基が勅命を奉じて、天下泰平祈願のため全国を巡錫(じゅんしゃく)し、当山の浄域に草庵を作り、一刀三礼(一刀刻む毎に三度礼拝する)の至誠を尽くして彫刻祈願されたのが、現在の御本尊十一面観世音菩薩様です。
嵯峨天皇の弘仁5年(814年)には、弘法大師が回国の際、一千座の護摩を焚いて庶民の除災招福を祈願したと言われています。
そして寛徳元年(1044年)3月10日、光慧上人により瓦葺き本堂が建立されました。御本尊様の彫刻予想年代とこの本堂建立の年代がほぼ一致することから、この頃が実際の開山と思われています。
この弘明寺は、横浜市の中でも一番古い寺である、と言われることがある。
かつて奈良時代に高僧行基が諸国を廻ってこの地に来た事があった。行基がふと空を見上げた時、突如として真白の蓮の花びらがどこからか現れて舞い始め、ここの山の上に降ってきたのである。
これは不思議な事、と行基がさっそく山を登っていくと、そこには大きな白狐に乗った仙人がいた。仙人が言う事には、
「この寺は養老(717年~724年)のころに、インドの三蔵法師が日本を巡って修行された際に建てられたものである。そのとき、三蔵法師は不思議な力を持つ七つの石を持ってこられ、経を書き込んでは結界として埋めておかれた。いつもは地中に隠れているが、自ら地上にあらわれて七つとも人の目に触れたときは、良いことか悪いことのどちらかが起きるであろう」
とお告げされ、その声が切れるが早いか煙のように消えてしまったという話がある。
時は流れ、寛永元年(1624年)と明和3年(1766年)のころ、前触れもなく突然石が現れた。
里人たちは良いことが起きるか、悪いことが起きるかと大いに案じたものの、里人たちの作物はよく育ち、商いは繁盛して、寺へも多くの寄進がなされたという。
その時から、この七ツ石は福石とも呼ばれるようになったとされる。
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