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むねとうじんじゃ

宗任神社
茨城県 宗道駅

御朱印について
御朱印
あり
限定
-
御朱印帳
-
パーキング
駐車場
-

おすすめの投稿

福姫🍑
2022年04月14日(木)
235投稿

ホトカミユーザーさんの投稿で、お名前は覚えていました😊
日本一早い豆撒きの神社⛩さん✨
そして、前総理 安倍晋三さんのご先祖がお祀りされている!ということも知っていました✨
とても歴史ある神社⛩さんなのですね!

宗任神社の鳥居

神社振興対策モデル神社⛩さんになっているそうです😊👏✨

宗任神社の本殿

色々な御利益のある旗が掲げられています👏✨

宗任神社(茨城県)
宗任神社の本殿
宗任神社(茨城県)
宗任神社の建物その他

茨城県の御朱印集めのポスター‼️✨

宗任神社の建物その他
宗任神社の本殿

ありがとうございます😊

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惣一郎
2021年10月04日(月)
1269投稿

宗任神社(むねとう~)は、茨城県下妻市にある神社。旧社格は村社。祭神は、安倍宗任公(あべむねとうこう)と安倍貞任公(あべさだとうこう)の2柱。

創建は平安時代末期の1109年、前九年の役で源頼義の軍勢に敗れた安倍宗任公を祭神として、遺臣の松本七郎秀則、息八郎秀元が遺品の青龍の甲冑などを奉じて創建。鎌倉時代には豊田郡33郷と幸嶋(猿島)12郷の総社として繁栄し、地方豪族の小田氏治、豊田将基からも崇敬を受けた。江戸時代には、徳川三代将軍家光公から朱印地5石、本殿拝殿の寄進を受けた。当時から、子供の虫封じに御利益があるとされた。明治時代になると、近代社格制度の下、村社に列した。

当社は、関東鉄道常総線・宗道駅の北方500mの市街地にある。県道357号線という大通りに面していて、境内南端には大きな鳥居や社号標があり辿り着きやすい。境内は一般的な旧村社のサイズだが、神主さん常駐のため、生き生きとした感じがしている。

今回は、下総国式内社の桑原神社の御朱印を拝受するために、兼務する当社に参拝することに。参拝時は週末の午後、参拝者は自分以外には誰もいなかった。

宗任神社の鳥居

鳥居をくぐると、社殿まで参道がまっすぐ伸びる。

宗任神社の末社

まず、参道右手にある<子宝神社>。社殿が木製樽の中に入っている面白い造り。

宗任神社の手水

つづいて、参道右側にある<手水舎>。両側の木に埋もれている笑

宗任神社の鳥居

参道進むと、<二の鳥居>。木製の六脚鳥居。

宗任神社の本殿

参道両側に境内社などがたくさんあるが、先に<拝殿>に向かう。

宗任神社の本殿

<拝殿>全景。軒の梁の位置に、横書きの扁額がある。

宗任神社の本殿

軒の下に入ると、建物の梁に<豊田三十三郷 幸嶋十二郷 総社 宗任神社>の扁額。

宗任神社の末社

参道右側にある<向山 稲荷神社>(左の小祠)と、大黒さん、おかめとひょっとこ?、西洋馬?(^_^;)

宗任神社の末社

参道右側にある<御霊神社>。

宗任神社の建物その他

参道右側にある<さざれ石>。

宗任神社の建物その他

参道右側にある、1つ目の<御神輿殿>。

宗任神社の末社

参道右側にある、いろんな<稲荷神社>。おそらくいろんな場所から遷座して来たものかと。
中央左は<佐田彦大神>。猿田彦のことかな?

宗任神社の末社

参道左手、社務所の左隣にある<交通神社>。

宗任神社の建物その他

参道右側にある、2つ目の<御神輿殿>。

宗任神社の建物その他

参道右側にある<御神楽殿>。

宗任神社の建物その他

参道の右側、拝殿の右隣にある<御神馬>。

宗任神社の本殿

参道左手にある<社務所>から、社殿を望む。御朱印はこちら社務所にて。

宗任神社の鳥居

境内入口の駐車スペースにて。真新しい大きな<狛犬>が迎えてくれる。

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歴史

阿部宗任公死一等を減じて、肥前に流され九州在住四十七年、天仁元年戊子九月九日享年七十八歳にして亡くなる。
松本七郎秀則の夢の中に、宗任公の霊魂妙音を以て告げる、『・・・・是より南尽未来際に鎮衛、有緑の地有り。抑も汝秀則、秀元父子は、是れ則ち我が家臣の末裔なり。且つ将に落葉の諸臣処処に漂泊して、在在に沈没す。其中に於て、稀に我が祖先の恩顧を追憶し、志を一にし、信を凝らす者有り。昔年我が著くる所の青龍と名づけし甲冑、封じて今現に鳥海の古城の石窟に在り。尋ねて探索し出だして各々護持し、以て南方に行くべし』。天仁二年、松本七郎秀則子八郎秀元父子と旧臣(普代郎)二十四名(和泉氏、栗原氏、小田氏、岩瀬氏、高野氏、黒川氏、佐藤氏、村山氏、岩手氏、上山氏、斉藤氏、岩沼氏、山本氏、安積氏)等と共に、宗任公の遺物を奉じ出羽国鳥海山麓を発して、野州二荒山麓にたどりついた。そこで一夜の宿を求めた樵の教える通りであった。一同は魚夫に頼んで、その小舟に乗せてもらい、川を下ることとなった。魚夫は二十八人もの人と沢山の荷物が乗れるかどうか案じたが、不思議にも納まってしまった。舟は水流に乗り、矢のごとく下った。そして、あっと言う間に下野と常陸の国境を過ぎ、下総国に入った。川が湾曲しているところへ来ると、小舟が動かなくなり、一同は宗任公の霊魂だろうと上陸した。田間の道に入ると、道が滑りて歩くことかなわず。奇怪にして恐らく察するに神慮、必ず此の奇事を随わせる。里人と語らいて、その日のうちに一棟の霊祠を造建し、滑田郷と名づけ、滑田明神(下妻市二本紀の香取神社)と号す。尚、一同は東に行く。しばらくすると侘人が持ちし宝器重く動かなくなり、松本氏が代わりに持つが、やはり動かず。それを見ていた旧臣の一人が「松本殿岡の如く動かず」と言い、松岡明神と号す。尚、東南方に三里行く。黒巣郷有り、一同は郷長に頼み宿泊した。するとその夜、秀則の夢の中に、宗任公の霊魂超勝絶妙の音韻を以て親しく告げる、『我、兼て吾が子に示す所の処は、即ち此れ是の境地なり。・・・一基の神祠を祝祭すべし。・・・郷名を改め、是れ自り後来、宗道郷と称すべき者なり。(黒巣の地名を、天の道、人の道を行くを宗とする意味で宗道と改めれば、人はすこやか、地は栄えるであろう。)・・・次に、三分の中、鎧一具を以て東南の鯨郷に鎮祭し、鎧明神と号すべきなり。(黒巣郷からみて東南巽は風の暴ら神の住む方向であるから、その暴らき風神を鎮め樹木をまもるため)・・・次に、東に大苑木郷あり、青龍逆角の一分の兜を鎮祭し、甲明神と号すべきなり。(青龍は雷神で雨を齎す農業の神から、東方の大苑木の繁った郷に)・・・』。翌朝、郷長に話語らい、一社を造建して、宗道郷鎮守宗任大明神と尊称す。元永二年晩秋良辰吉日に、神職松本七郎秀則、長男八郎秀元親子、慎み敬いて、宗任大明神の因縁起来由を書き記す。
その後、郷長黒須大学、娘を八郎秀元に嫁がせ、黒須家は、赤巣(赤須)郷に鹿島香取社と共に転宅する。それにより地名若宮戸と呼ぶ。又、鯨郷大苑木郷に其々社を鎮め祀る。
戦国の世は、小田城主氏治殿月参り、豊田城主四郎将基殿日参りの程共に尊崇篤く、社途中より下馬参向の礼をとり、今日『駒止め』の地名のこる。又、豊田氏よりは、当社に祭祀料として、滑田、松岡、田下、下栗、宗道、鯨、大苑木の地を奉納。(これが手向郷の根源と一説に伝う)他、豊田氏、当社の御分霊を豊田城外に祀る。(阿部神社)鎌倉時代より当社は、豊田三十三郷幸嶋十二郷総社となる。(計四十五郷鎌倉時代の水帳《地検帳》当社に現存す)江戸時代、三代将軍家光公より代々、祭祀料朱印五石を賜る。又、日光東照宮完成のおり家光公より、本殿拝殿を奉納。(当里宗道河原より日光へ資材等を送る)明治時代、廃社の厄を恐れ、祭神阿部宗任命の仮名とし、天津彦々穂之瓊々杵命と号した。同十三年、大火にて本殿拝殿失う。同十七年、本殿拝殿完成。昭和五十三年、『第一期モデル神社』指定。平成元年、宗任神社の森『茨城県の自然100選』に選ばれる。

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宗任神社の基本情報

住所茨城県下妻市本宗道89
行き方

関東鉄道常総線宗道駅より徒歩10分

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名称宗任神社
読み方むねとうじんじゃ
御朱印あり

限定御朱印なし
電話番号0296-43-5460
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。

詳細情報

ご祭神阿倍宗任公・阿部貞任公
創建時代天仁二年(1109)
ご由緒

阿部宗任公死一等を減じて、肥前に流され九州在住四十七年、天仁元年戊子九月九日享年七十八歳にして亡くなる。
松本七郎秀則の夢の中に、宗任公の霊魂妙音を以て告げる、『・・・・是より南尽未来際に鎮衛、有緑の地有り。抑も汝秀則、秀元父子は、是れ則ち我が家臣の末裔なり。且つ将に落葉の諸臣処処に漂泊して、在在に沈没す。其中に於て、稀に我が祖先の恩顧を追憶し、志を一にし、信を凝らす者有り。昔年我が著くる所の青龍と名づけし甲冑、封じて今現に鳥海の古城の石窟に在り。尋ねて探索し出だして各々護持し、以て南方に行くべし』。天仁二年、松本七郎秀則子八郎秀元父子と旧臣(普代郎)二十四名(和泉氏、栗原氏、小田氏、岩瀬氏、高野氏、黒川氏、佐藤氏、村山氏、岩手氏、上山氏、斉藤氏、岩沼氏、山本氏、安積氏)等と共に、宗任公の遺物を奉じ出羽国鳥海山麓を発して、野州二荒山麓にたどりついた。そこで一夜の宿を求めた樵の教える通りであった。一同は魚夫に頼んで、その小舟に乗せてもらい、川を下ることとなった。魚夫は二十八人もの人と沢山の荷物が乗れるかどうか案じたが、不思議にも納まってしまった。舟は水流に乗り、矢のごとく下った。そして、あっと言う間に下野と常陸の国境を過ぎ、下総国に入った。川が湾曲しているところへ来ると、小舟が動かなくなり、一同は宗任公の霊魂だろうと上陸した。田間の道に入ると、道が滑りて歩くことかなわず。奇怪にして恐らく察するに神慮、必ず此の奇事を随わせる。里人と語らいて、その日のうちに一棟の霊祠を造建し、滑田郷と名づけ、滑田明神(下妻市二本紀の香取神社)と号す。尚、一同は東に行く。しばらくすると侘人が持ちし宝器重く動かなくなり、松本氏が代わりに持つが、やはり動かず。それを見ていた旧臣の一人が「松本殿岡の如く動かず」と言い、松岡明神と号す。尚、東南方に三里行く。黒巣郷有り、一同は郷長に頼み宿泊した。するとその夜、秀則の夢の中に、宗任公の霊魂超勝絶妙の音韻を以て親しく告げる、『我、兼て吾が子に示す所の処は、即ち此れ是の境地なり。・・・一基の神祠を祝祭すべし。・・・郷名を改め、是れ自り後来、宗道郷と称すべき者なり。(黒巣の地名を、天の道、人の道を行くを宗とする意味で宗道と改めれば、人はすこやか、地は栄えるであろう。)・・・次に、三分の中、鎧一具を以て東南の鯨郷に鎮祭し、鎧明神と号すべきなり。(黒巣郷からみて東南巽は風の暴ら神の住む方向であるから、その暴らき風神を鎮め樹木をまもるため)・・・次に、東に大苑木郷あり、青龍逆角の一分の兜を鎮祭し、甲明神と号すべきなり。(青龍は雷神で雨を齎す農業の神から、東方の大苑木の繁った郷に)・・・』。翌朝、郷長に話語らい、一社を造建して、宗道郷鎮守宗任大明神と尊称す。元永二年晩秋良辰吉日に、神職松本七郎秀則、長男八郎秀元親子、慎み敬いて、宗任大明神の因縁起来由を書き記す。
その後、郷長黒須大学、娘を八郎秀元に嫁がせ、黒須家は、赤巣(赤須)郷に鹿島香取社と共に転宅する。それにより地名若宮戸と呼ぶ。又、鯨郷大苑木郷に其々社を鎮め祀る。
戦国の世は、小田城主氏治殿月参り、豊田城主四郎将基殿日参りの程共に尊崇篤く、社途中より下馬参向の礼をとり、今日『駒止め』の地名のこる。又、豊田氏よりは、当社に祭祀料として、滑田、松岡、田下、下栗、宗道、鯨、大苑木の地を奉納。(これが手向郷の根源と一説に伝う)他、豊田氏、当社の御分霊を豊田城外に祀る。(阿部神社)鎌倉時代より当社は、豊田三十三郷幸嶋十二郷総社となる。(計四十五郷鎌倉時代の水帳《地検帳》当社に現存す)江戸時代、三代将軍家光公より代々、祭祀料朱印五石を賜る。又、日光東照宮完成のおり家光公より、本殿拝殿を奉納。(当里宗道河原より日光へ資材等を送る)明治時代、廃社の厄を恐れ、祭神阿部宗任命の仮名とし、天津彦々穂之瓊々杵命と号した。同十三年、大火にて本殿拝殿失う。同十七年、本殿拝殿完成。昭和五十三年、『第一期モデル神社』指定。平成元年、宗任神社の森『茨城県の自然100選』に選ばれる。

体験武将・サムライ

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