なんこうぼう|真言宗醍醐派|別宮山(べっくざん)
南光坊のお参りの記録一覧
【別宮山(べっくさん)金剛院光明寺(こんごういんこうみょうじ)南光坊(なんこうぼう)】
本尊:大通智勝如来
宗派:真言宗醍醐派
開基:行基菩薩
南光坊は、大山祇(おおやまづみ)神社の別当寺のひとつとして建立されている。大山祇神社は703(大宝3)年、航海の安全を祈願して今治沖の大三島に建立されたが、海を渡って参拝するのが不便なため、24ある別当寺のうち8坊が今治に移された。その後、弘法大師(774-835)が巡教の際に訪れたのが、四国霊場としてのはじまりとなっている。8つの坊は、長宗我部元親による天正の兵火ですべて焼失したが、南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。1600(慶長5)年には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂を再建、また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、祭祀料を奉納している。太平洋戦争で大師堂と金毘羅堂以外が焼失しており現在の本堂は1981(昭和56)年秋、薬師堂は1991(平成3)年春に、山門は1998(平成10)年に再建されている。
【55_T.Hamada's view】
大師堂
【55_金毘羅堂】
古来から海賊や水軍で知られる今治市。そのためか金毘羅大権現を祀る「金毘羅堂」がある。1860年頃、文久年間の建造物。(四国霊場開創1200年記念絵はがき)
【55_金毘羅堂】
【55_本堂】
【55_大師堂】
【55_山門(四天門)】
迫力ある四天王像が配置されている。
【55_持国天像】
東方天
【55_増長天像】
南方天
【55_広目天像】
西方天
【55_多聞天像】
北方天
【55_薬師堂】
四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけである。正式には光明寺金剛院南光坊という。今治市の中心街にあるが起源は古く、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深くかかわる歴史を有する。
縁起によると、大宝3年、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697?707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれる。これらの別当寺は翌々年、海を渡っての参拝が不便なことから現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。さらに、弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法され、霊場に定められた。
大師堂
のち、伊予全土におよんだ「天正の兵火」により、社殿・伽藍はことごとく焼失したが、南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。慶長5年(1600)には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂を再建、また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、祭祀料を奉納している。
さらに時代がさがり、明治初年の廃仏毀釈では本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と脇侍の弥勒菩薩像、観音菩薩像を南光坊薬師堂に遷座し、別宮大山祇神社と明確に分離した。
太平洋戦争最末期の昭和20年8月、空襲により大師堂と金比羅堂を残して罹災した。現在の本堂は昭和56年秋、薬師堂は平成3年春に、山門は同10年に再建されている。
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