そうじいん|天台宗|金輪山
總持院(谷中不動尊)のお参りの記録一覧
谷中のお不動さんと呼ばれている。
小さなお寺であったが、なかなか歴史的にみると深い。
高村光雲・光太郎親子に縁あるお寺だという。
高村家のお墓は、巣鴨の染井霊園にあったもので、谷中と関係あるとは思わなかった。
行ってみて知る。
勉強や。
天正18年(1590)徳川家康江戸入府のとき、旗本大久保七郎右衛門忠世(彦左衛門長兄)も大山不動尊と同木同作と言われている守護神の不動尊を奉持して、神田寺町に安置しました。慶長16年(1611)2月忠世の子忠隣の代に境内地400坪(1,320平方メートル)を賜り、栄松法印を開山として茲に創建いたしました。
これより37年後の慶安元年11月には、当所へ代地を賜り移転して、町名を総持院門前町と称し、明治2年に総持院町と改め、同12年4月に谷中町となります。通称谷中不動尊はこの町名に由来しております。芝崎町の東光院が本寺です。谷中町及び近辺の信者で講中を作り、大山詣りも盛んに行われ、毎月28日の縁日には屋台も出て賑わったと言われています。
家康の長子信康(1579自刃)と、その母築山(今川義元の養女。1579賜死)の母子共に生害されたのを忠隣の孫忠朝深く憐み、元禄11年(1698)120回の御忌辰には、御位牌を当院に安置されてご冥福を祈念されたと言うことです。正五九月には代参を遣わされています。
明治23年4月高村光雲は下谷西町から当院の宅地に転居しています。門構で平家建の家でした。光太郎7歳姉さくが14歳の頃です。光太郎は日暮里小学校に通っており、谷中墓地で友達と元気に遊んでいたと言うことです。
姉のさくは利発で絵が上手で、親思いであり、光雲の無事息災を祈って当院の不動尊に願をかけていました。明治25年9月9日さくは病没します。光雲は娘の死に力を落し、思い出の残る谷中を離れ、千駄木林町に移ります。
当院は関東大震災、戦災共に、幸いにも難を免れております。(天台宗のページより)
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