うどじんぐう
鵜戸神宮のお参りの記録一覧
波の浸食でできた景観美。そこに神さまがおられる。正直、行ってみるまでなかなか想像できませんでした。🤔ところが、石段を下りながら、まず目に入ってきたのは、丸みを帯びた巨大な岩。そして、洞窟に入ると拝殿。😯自然が織りなす美しさの中に、あまりにも調和していて立っているだけで有難い気持が湧いてきました。😯
御祭神:ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト
第十代天皇崇神天皇御代の創建。第五十代天皇
桓武天皇の延暦元年、天台宗の僧侶 光喜坊快久が
神殿を再興。寺院も建立。鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺の号を賜ったとのこと。
その後、宗派が真言宗になり一時は西の高野とうたわれたそうです。
明治維新後、権現号・寺院が廃止。鵜戸神社となり、後に官幣大社鵜戸神宮に昇格されたとのこと。
以前から一度お参りしたいと思っていました神社さん。念願叶い感謝です。🙏
神門
波の浸食でできた洞窟内に鎮座されている
神さまに手を合わせるのは、初めてです。
楼門
海の青色に、朱色が際立って見えます。
"運玉"を亀石の枡形に向かって投げている方々が見えてきます。🤭
洞窟に入ると御社殿が!😯息を呑む美しさです。😌
中を一周します。
亀石(左下)
いただいた御朱印です。
御朱印帳
飴もいただきました。🤭
自然が織りなす景観美。その中に静かに鎮座されている神さま。天気にも恵まれ贅沢な時間を過ごさせていただきました。感謝です。🙏
約25年ぶりくらいの参拝になるでしょうか。
まだ若い頃に参拝したので当時は単なる観光巡りの一つにしか過ぎなかったのですが、どうしてももう一度お参りしたいと思い、今回参拝させていただきました。
ぜひ一度はお参りしていただきたい神社の一つです。
自身の目で見て、空気を感じていただきたいですね。
<御祭神>
日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊
大日孁貴
天忍穂耳尊
彦火瓊々杵尊
彦火々出見尊
神日本磐余彦尊
豊玉姫が主祭神である日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊をお産みになり、育児のため両乳房をご神窟にくっつけて行かれたと云われています。
とても有名な鵜戸神宮ですから、詳細なご由緒はほかの方も書かれていると思いますので、ここでは割愛させていただきます。
二の鳥居
一の鳥居は車で走行中だったため撮れませんでした
神門
楼門
千鳥橋
さて、いよいよ御本殿がある岩窟入り口が見えてきました!
御本殿
皇子神社
九柱神社
撫でうさぎ
御霊石
主祭神誕生の際に使われたとされる「産湯の跡」
霊石亀石
「運玉」を投げたけど入りませんでした😅
御祈祷所
吾平山上陵への参道に入る門
鵜戸稲荷神社鳥居
恵比須神社
この恵比須神社の向かって左横から吾平山上陵へと続くようなのですが、今回はここまでで断念しました。
日本三大下り宮の一つの鵜戸神宮
前日に熊本県の草部吉見神社を参拝したのであと一つ群馬の一ノ宮貫前神社も近々参拝して見たいと計画中。
御朱印帳使ってないのが溜まってきてるので購入するの控えてるのですが、令和五年限定の御朱印帳に惹かれて、ついつい購入
鵜戸神宮は日本神話に語られる山幸彦・海幸彦の伝説の舞台となった場所として知られる。邇邇藝命と木花之佐久耶毘売との子である海幸彦(火照命)と山幸彦(火遠理命、またの名を天津日高日子穂穂手見命)はそれぞれ漁と狩りを生業として暮らしていたが、ある時、山幸彦の申し出によって互いの道具を交換して仕事に出る。慣れぬ仕事で成果は上がらず、さらには山幸彦は兄の大事な釣り針を無くしてしまう。
途方に暮れる山幸彦は塩椎神の助言に従って綿津見神の宮へ行き、そこで綿津見神の娘である豊玉姫を妻とする。やがて山幸彦は釣り針を取り戻して陸に戻るが、山幸彦の子を身ごもっていた豊玉姫が出産のためにやってくる。豊玉姫の出産のための産屋が、今は鵜戸神宮本殿の建つ洞に用意されたのだという。鵜の羽を用いた立派な産屋だったが、完成が出産に間に合わず、そのことから生まれた子は鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と名付けられた。鵜戸神宮はこの鵜葺屋葺不合命を祀っている。
「出産の時には本来の姿に戻らなくてはならず、その醜い姿を見られたくないから出産の際は産屋の中を覗かぬように」と豊玉姫は山幸彦に言ったのだが、心配する山幸彦は中を覗いてワニの姿に戻って出産する姫の姿を見てしまう。それを悲しんだ豊玉姫は海原の国へ戻ってしまった。姫は子のために乳房を置いていったと伝えられる。山幸彦ひとりで子を育てるのは大変だろうと、豊玉姫は妹の玉依姫を乳母として地上に送る。やがて成長した鵜葺屋葺不合命は玉依姫を妻とする。ふたりの間に生まれた子の中に、後の神武天皇がいる。
【日向國 古社巡り】
鵜戸神宮(うど・じんぐう)は、宮崎県日南市大字宮浦にある神社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。主祭神は日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえず)、相殿神は、大日孁貴(おおひるめのむち:天照大御神)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみ)、彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎ)、彦火々出見尊(ひこほほでみ)神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこ:神武天皇)。
創建は不詳。社伝によると、本殿の鎮座する岩窟は豊玉姫が主祭神を生むための産屋を建てた場所で、その縁により崇神天皇の御代に「六所権現」と称し創祀され、推古天皇の御代に岩窟内に社殿を建て「鵜戸神社」と称したと伝える。奈良時代の782年に天台僧・光喜坊快久が桓武天皇の勅命を蒙って別当となり神殿を再建し、別当寺院を建立して「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」の勅号を賜ったと伝える。平安時代以降は修験道の一代道場として「西の高野」とも呼ばれ両部神道の霊地として栄えた。
戦国時代以降、領主・伊東氏の崇敬を受け、1560年には伊東義祐による社殿の再建以降、江戸時代を通じて飫肥藩主・伊東氏による社殿の造替、修復が行われた。明治に入り、神仏判然令により仁王護国寺を廃し「鵜戸神社」と称したが、神宮号が宣下されたため「鵜戸神宮」と改称し、官幣小社に列格、その後官幣大社に昇格した。
当社は、JR日南線・伊比井駅の南方8kmの海沿いの断崖上にある。少し内陸を走る国道220号線から逸れて、小さな漁師町を通過し、海沿いの坂道を進むと境内入口に到着する。入口の駐車場は数十台分しかないが、少し内陸側の高い場所に観光バスなども停車できる大きな駐車場がある。境内入口の一の鳥居から海際を進むと、数百m北上したところにある岩窟内に社殿がある。切り立った断崖上の岩窟内に社殿があることだけでオリジナリティは満点。現代は道路や施設が整備され簡単に辿り着けるが、昔は相当大変だったであろうことが容易に想像でき、修験道の霊場と言われても納得できる。
今回は、旧官幣大社、別表神社であることから参拝することに。参拝時は休日の午前中で、団体・個人、老若男女関わらず多くの参拝者が訪れていた。
境内から1kmあまり離れたところにある<一の鳥居>。
海岸沿いの断崖上の道を進むと、境内南端入口に辿り着く。入口付近は駐車場。
境内南端の<二の鳥居>。
鳥居をくぐって参道をまっすぐ進むと<授与所>に突き当たる。御朱印はこちら。
社伝に向かうには、右方向に進んで行く。
海岸沿いの参道を進んで<神門>。
神門をくぐってさらに進むと<随神門>。
隋神門をくぐると、参道右側にある<手水舎>。
<手水盤>はとっても綺麗~♪ (o^―^o)
やがて参道は二股に分かれ、左側を進む。
北原白秋の句が書かれた看板が立つ拝所。
橋の下を見下ろしたところ。下の岩窟内に社殿がある。
階段を徐々に降りて行く。
岩窟の入口に立つ<三の鳥居>。
鳥居をくぐって左手にある<拝殿>。
<拝殿>正面。
拝殿内では祈祷を行っている。
拝殿左側から社殿周りを見て廻る。まずは境内社の<皇子神社>。
奥の<授与所>。
授与所の奥にある<九柱神社>。
拝殿の左側面にも<授与所>。
九所神社の右側にある<撫でうさぎ>。
撫でうさぎの右側にある<産湯の跡>。
産湯の跡の右側にある<お乳岩>。
拝殿の右手にある<火産靈神社・住吉神社・福智神社>。ほぼ授与所の一部になっている。
鳥居の外に出て、崖下を望む。
海に臨む<祓所>。
境内端から社殿方向を望む。
素晴らしい奇岩たち。
参道を半分ほど戻って、境内社が建ち並ぶエリアの<神門>。
神門をくぐって右側にある建物。祭器庫か何かかな。
一段高いところにある<鵜戸稲荷神社>への鳥居。
階段を登った突き当りが<鵜戸稲荷神社>。
鵜戸稲荷神社に向かって右後方にある<恵比須社>。
再度にもう一度、<社殿>全景。とっても印象深い建物~♪ (^▽^)/
かなりの雨の降る中参拝したので、階段が石なので滑るかもとかなり心配しながらだったので、普段の倍歩き疲れました。
眺めもいいので、天気がいい時がおすすめです。
運玉投げも傘を差して、投げたので大変でした。
御朱印は背景が違うものが何種類かあり、置き書きですが、日付けはその場で書いていただけました。
何種類かある中からこの置き書き御朱印にしました。
日付けだけその場で書いてくれました。
運玉投げで、このしめ縄の中に入れば願いが叶うらしいです。
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