勝國寺は、龍祥山と號し、中區蒔田町字會下九百三十二番地にある。
境内は千八百九十六坪。官有地。東京府南多摩郡恩方村下恩方心源院の末寺で、二等法地三十級である。
沿革
文明十一年、吉良左京大夫政忠が先考賴高追福の爲めに開基した所と云ふ。
政忠は文龜二年六月十七日卒して、當寺に葬り、法名を勝國寺殿照岳道旭大居士と諡つた。
父の追福の爲め建てた寺であれば、父の法名を取つて名づくべきに、政忠自身の法名を取ることは理由無いと思ふ。
然るに世田ヶ谷私記に「蒔田村勝國寺住持の曰、開基の節は靈應寺と云ふ。
中興開基は吉良左京大夫政忠朝臣にして、勝國寺と改給ふと云。」とあるを見れば、政忠が父の追福の爲めに建てたと云ふことは疑はしくなつてくる。
思ふに此寺、關東公方から蒔田を吉良氏に與へた後の中興で、卽ち成高が父政忠の爲めに創立したと解するが妥當であると思ふ。
吉良氏の事、詳に政治編第一に述べてある。政忠の墳墓は當寺の後丘にあつて、五輪塔である。
永祿三年十二月二十六日、政忠の孫、左兵衛佐賴康が其養子氏朝と連署を以て、當寺外六寺に宛てゝ安堵状を出した。
此文書は今尙荏原郡碑衾村大字衾の東岡寺に傳はつてゐる。
賴康は永祿四年十二月五日卒去し、當寺先塋に葬つた。
法名を勝光院脫山淨森居士と云つた。
元祿四年、梵鐘を鑄造し、其後廔〻無住となり、且つ三囘の囘祿の厄を重ねたので、寺運大に衰へたが、開港後、檀徒の增加を得たので、明治十六年、桁行六間半、梁間六間半の本堂の再建を遂げた。
大正十二年九月一日の大震災に、本堂・總門、竝に境内祠堂 天滿宮・白山權現合祀。等破壊顚倒の慘害を被つたが、直後、庫裡を假造して、假本堂に充て、以て今日に及んで居る。
本尊
本尊は華嚴釋迦牟尼如來・脇侍文珠菩薩・普賢菩薩である。武藏風土記稿には、吉良賴康の納めた地藏尊を安置すと載せてあるが、今は失つてない。
堂宇
現今の本堂は、庫裡兼帶で、桁行九間半、梁間六間の草葺である。元の本堂は桁行八間、梁間八間、四注造の草葺であつたが、震災に倒潰した。
境内祠堂
天紳・御嶽相殿の祠堂があつたが、地震に倒潰して、未だ復興を見ない。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
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