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こまごめみょうぎじんじゃ

駒込妙義神社
公式東京都 駒込駅

授与所/9:00~16:00(昼休み 12:00~13:00) 休務日/水曜定休日(祝日・辰の日の場合は翌日が振替休務日となります)
参拝/24時間

御朱印について
御朱印
あり
限定
あり
御朱印帳にお書き入れ
あり
郵送対応
あり
御朱印帳
-
ありません
パーキング
駐車場
あり

社殿脇に二台まで車が停められます。
ご使用の際はご自身で車止めを動かしてから駐車をお願いいたします。

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malice
2024年01月23日(火)
446投稿

ねこ御朱印巡り二社目😺
白金氷川神社様から駒込妙義神社様へ初めてお参りに来ました😊
インスタにねこの御朱印が載っていてHPを覗くと月替りでねこの御朱印がある事を知りました😺

【駒込妙義神社】

およそ1300年の歴史を持つ妙義神社は、駒込に鎮座しております。
伝承によれば、日本古代史における伝承上の英雄 日本武尊が、当時東国にいた民族である蝦夷を討つために東征した際、この妙義神社がある場所に陣営を構えたと伝えられています。
人々は、御威徳慕い尊びまつりこの地に社が建てられました。
日本武尊が白鳥に生まれ変わり飛び立ったという伝説から、白雉(はくち)2年(651年)5月12日、白鳥社と号しました。
豊島区内では最古の神社として伝えられています。
「新編武蔵風土起稿」によると、最初に江戸城を築いた室町時代後期の武将•太田道灌は、文明3年(1471年)5月、古河公方•足利成氏との戦に出陣する際、当社に参詣し、神馬•宝剣を寄進し戦勝を祈願しました。
道灌はこの戦に勝ち凱旋した際、当時の通貨である15貫文を社領として寄進しました。

その後、文明9年(1477年)春、平塚城(現在の東京都北区上中里)を拠点とし関東管領上杉家に反旗を翻した豊島勘解由左衛門を討伐する際や(長尾景春の乱)、同11年(1479年)春、室町幕府に造反した千葉孝胤を攻める際にも道灌は当社に必勝を祈願し、見事勝利を収めました。
当時、当社境内には稲荷山という小高い山があり、道灌は稲荷山に立ち豊島氏の平塚城を望みながら戦略を考えたのではと思われます。
この様なことから、当社は当時から「勝負の神様」「戦勝の宮(みや)」と呼ばれることとなり、人々よりあつい信仰を集めました。   

かつて当社には、道灌の木像や道灌が奉納した宝剣、古文書•古記録など様々な社宝がありましたが、残念ながら、大正12年(1923年)9月に起きた関東大震災や昭和20年(1945年)4月の空襲により、社殿•社務所とともにすべて焼失しました。
幾度かの災禍に見舞われてきましたが、そのたびに氏子崇敬者の方々のご協力により、いち早く復興を成し遂げることができました。
昭和40年(1965年)3月に社殿を造営、続いて翌年12月に社務所を落成いたしました。
末社•道灌霊社には太田道灌公が祀られており、庚申塔は寛永19年(1642年)11月の造立で、豊島区有形文化財に指定されました。

しかしながら長い年月、風雪に耐えて参りました社殿•社務所ともに老朽化が著しく、さらには境内に隣接した児童遊園の下の車庫•倉庫におきましては崩壊の危険性をご指摘されたことにより、氏子崇敬者の皆様の篤いご協賛と関係各位のご尽力によりまして御社殿御造営、境内整備などを行い、令和2年8月に竣工いたしました。
ー駒込妙義神社HPよりー

駒込妙義神社(東京都)

☆鳥居⛩️☆

駒込妙義神社(東京都)

まだ新しいので白くて綺麗でした😊

駒込妙義神社(東京都)

☆手水舎☆

駒込妙義神社(東京都)

こちらの手水は龍神様が二匹いらっしゃいました🐉

駒込妙義神社(東京都)

兜を被っていました🐉

駒込妙義神社(東京都)

☆御拝殿と社務所☆

駒込妙義神社(東京都)

☆御拝殿☆

駒込妙義神社(東京都)
駒込妙義神社(東京都)

御拝殿の入口の龍の彫刻🐉

駒込妙義神社(東京都)

【御祭神】 日本武尊
第12代景行天皇の皇子であり、勇敢で利発な人物であったと言われています。
日本武尊の力を恐れていた景行天皇は、自らから遠ざけるために九州の熊曾建(くまそたける)兄弟の討伐を命じました。
平定の旅に出た日本武尊にとっては苦難の連続でしたが、伊勢神宮の斎宮であり日本武尊の叔母でもある倭姫命(やまとひめのみこと)から与えられた着物で女装をし、敵を油断させることで見事に勝利し、平定を成し遂げました。
日本武尊の名は、もとは小碓命(おうすのみこと)また倭男具那王(やまとおぐなのみこ)といいましたが、敗れた熊曾建から「これからは、ヤマトタケルノミコトと称えましょう」と名前を贈られました。

【相殿神】 高御産霊神(タカミムスビノカミ)
古事記や日本書紀にある天地創世•天地開闢の話によれば、天地のはじめに高天原に現れた造化三神(ぞうかさんしん)の中で、天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)の次、神皇産霊神(かみむすびのかみ)の前に現れた2番目の神です。
「産霊(むすひ)」は「生産•生成」を意味する言葉であり、3番目の神、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神とされます。

神功皇后(ジングウコウゴウ)
仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、名を気長足姫尊(息長足姫命)(おきながたらしひめのみこと)という。
仲哀天皇が熊襲を討つため筑紫の橿日宮(かしひのみや)香椎宮にきたとき、天照大神と住吉三神が皇后にのりうつって託宣を下したが、仲哀はこれを信じなかったために急死した。そこで神功は、身重の体であったにもかかわらず新羅を討ち、無事帰国後、筑紫の宇美で後の応神天皇を出産したといわれております。

応神天皇(オウジンテンノウ)
仲哀天皇の皇子で、母は神功皇后と伝える。諱(いみな)は誉田別尊(品陀和気命)(ほんだわけのみこと)。筑紫で生まれ、母とともに大和に赴き、神功皇后の次に王位についたという。

駒込妙義神社(東京都)
駒込妙義神社(東京都)

☆御本殿と御拝殿☆

駒込妙義神社(東京都)
駒込妙義神社(東京都)

☆太田道灌霊社☆
【御祭神】
太田道灌公 
室町中期の武将•歌人。名は持資(もちすけ)、のち資長(すけなが)。道灌は法名。扇谷(おうぎがやつ)上杉家の重臣。1457年、江戸城を築く。上杉家の策謀により、主君に暗殺された。軍法にすぐれ、和漢の学を修め、和歌に秀でた武将であった。           

妙義神社の大神様を終生の守護神として崇められていました。

駒込妙義神社(東京都)
駒込妙義神社(東京都)

☆狛猫様☆

駒込妙義神社(東京都)
駒込妙義神社(東京都)

☆厄辰石☆

駒込妙義神社(東京都)
駒込妙義神社(東京都)

龍の飾りになってました🐉

駒込妙義神社(東京都)

☆庚申塔☆
寛永19年(1642年)11月の造立で、豊島区有形文化財に指定されました。

駒込妙義神社(東京都)
駒込妙義神社(東京都)

☆辨財天☆

駒込妙義神社(東京都)

上 令和6年 勝軍宮御朱印 1月
左 通年御朱印
右 令和6年 透かし御朱印 1月•2月『一陽来復』
こちらの御朱印は2ヶ月事に替わるそうです🐉

駒込妙義神社の建物その他

今月いただける御朱印
太田道灌霊社の御朱印を頼み忘れました💦

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歴史

当社の祭神は、高御産霊神・日本武尊・神功皇后・応神天皇である。文政11年(1828)に成立した『新編武蔵風土記稿』の記述によれば、日本武尊が東征の時にこの地に陣営をしき、のち白雉2年(651)5月に社を建てて白鳥社と号したという。これによれば、区内最古の神社ということになる。
 くだって文明3年(1471)5月、足利成氏との戦いを前にした太田道灌は当社に参詣し、神馬・宝剣を捧げて戦勝を祈願した。その際、「雲払ふ 此神垣の 風の音」と連歌を詠み、この戦いでは、成氏を敗走させたという。
 続いて道灌は、文明9年の豊島勘解由左衛門との戦いの際、さらに同11年の千葉孝胤攻略の折にも戦勝祈願に当社に参詣したといわれている。こうした故事から、「戦勝(かちいくさ)の宮」とも呼ばれて信仰を集めた。その一方で、大永年間(1521~27)には江戸城代遠山丹波守が、また永禄12年(1569)には守護富永神四郎が当社を修理したものの、天正年間(1573~91)に松田尾張守康秀が社領を没収したのち衰廃するなど、当社にとって戦国時代は波瀾の時期でもあった。
 境内には、寛永19年(1642)11月に駒込村の農民によって建立された庚申塔が遺されており、当該地域の信仰の拠点となっていたことが推察される。

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駒込妙義神社の基本情報

住所東京都豊島区駒込3ー16−16
行き方

JR山手線 駒込駅下車 北口から徒歩5分
東京メトロ南北線 駒込駅下車 4番出口・5番出口から徒歩5分

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名称駒込妙義神社
読み方こまごめみょうぎじんじゃ
通称勝軍宮(かちいくさのみや)
参拝時間

授与所/9:00~16:00(昼休み 12:00~13:00) 休務日/水曜定休日(祝日・辰の日の場合は翌日が振替休務日となります)
参拝/24時間

参拝にかかる時間

約10分

参拝料

なし

御朱印あり

限定御朱印あり
御朱印帳に直書きあり

御朱印の郵送対応あり

御朱印帳なし
電話番号03-3917-1938
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
メールアドレスmyogijinjya@gmail.com
ホームページhttps://www.myogi.tokyo/
おみくじあり
絵馬あり
SNS

詳細情報

ご祭神《主祭神》
 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
《相殿神》
 高皇産霊神(タカミムスヒノカミ)
 神功皇后(ジングウコウゴウ)
 応神天皇(オウジンテンノウ)
創建時代白雉2年(651)
本殿神明造
ご由緒

当社の祭神は、高御産霊神・日本武尊・神功皇后・応神天皇である。文政11年(1828)に成立した『新編武蔵風土記稿』の記述によれば、日本武尊が東征の時にこの地に陣営をしき、のち白雉2年(651)5月に社を建てて白鳥社と号したという。これによれば、区内最古の神社ということになる。
 くだって文明3年(1471)5月、足利成氏との戦いを前にした太田道灌は当社に参詣し、神馬・宝剣を捧げて戦勝を祈願した。その際、「雲払ふ 此神垣の 風の音」と連歌を詠み、この戦いでは、成氏を敗走させたという。
 続いて道灌は、文明9年の豊島勘解由左衛門との戦いの際、さらに同11年の千葉孝胤攻略の折にも戦勝祈願に当社に参詣したといわれている。こうした故事から、「戦勝(かちいくさ)の宮」とも呼ばれて信仰を集めた。その一方で、大永年間(1521~27)には江戸城代遠山丹波守が、また永禄12年(1569)には守護富永神四郎が当社を修理したものの、天正年間(1573~91)に松田尾張守康秀が社領を没収したのち衰廃するなど、当社にとって戦国時代は波瀾の時期でもあった。
 境内には、寛永19年(1642)11月に駒込村の農民によって建立された庚申塔が遺されており、当該地域の信仰の拠点となっていたことが推察される。

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