おほふらじんじゃ
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御朱印 | |||
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限定 | - | ||
御朱印帳 | - | ありません | |
駐車場 | 鳥居横に駐車スペースあり |
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「おほふらじんじゃ」と読みます。
当社の草創は、飛鳥白鳳期にして、大洞山の霊峰を背にし、天武天皇白鳳4年現在地に祀られる。考証するところ隣の田部村、村内の往還道路に鳥居ありて、旅人馬乗して通る時、必ず落馬したと伝えられている。
~滋賀県神社庁HPより抜粋~
ゆっくりお詣りさせて頂きました。
道路は狭いですが、バス停がありましたので、それなりの道幅があります。
駐車場は見あたりませんでした。
鳥居
手水舎①
手水舎②
拝殿
なでうし
患っている箇所をなでなで🙂
本殿
秋葉神社
天満宮
豊栄神社
稲荷大明神
おまけ
天満宮なので菅原道真公ですね❗️
近江国伊香郡の式内社です。社名は「おほふら」と読み、この神社の裏手にある大洞山に由来するもので、霊峰とされていました。この神社はその里宮とされており、かなり広く綺麗な神社でした。
《一の鳥居と社号碑》
参道の入り口には太鼓橋があり、鳥居も遠目でわかりにくいですが、かなり大きく立派です。
《由緒書き》
👁チェックポイント‼️
由緒書き内には近江国の四祓所の一社とかかれており、近江国の式内社には所々出てきます。その他の祓所の神社は唐崎神社、白鬚神社、荒神山神社と言われています。これらはそれぞれその周辺地域の祓所、御祈願所とされていたようです。
ちなみに佐久奈度神社の伝説ではこの祓所が七所あると言われています。残り2社は一体どこでしょうか…?
《表参道》
《社務所》
立派な建物ですが無人でした。
《田神山観音寺》
本社の左側に鎮座しています。近くには木之本地蔵院浄信寺という大きいお寺もあり、仏教の力も強かったのがわかります。
《合祀社の書かれた社号碑》
裏にある大洞山の中腹には神前神社、乃彌神社、蟻通神社があったそうですが、現在はこの神社に合祀されたようです。そのうち神前、乃彌神社は式内社です。
《外拝殿》🙏
雪の重さにも負けない重厚な作りをしてますね。
《絵馬掛け》
珍しく十二支が刻まれています。自分の生まれた干支に置くのでしょうか?
《兜石》
この神社には木曾義仲公が上洛する途中に通り、戦勝祈願したと伝わっており、休息を取ったときに兜を置いた大岩らしいです。雪に埋もれて全容は見えませぬ…
《末社群》
本社の右横にあり、左から秋葉神社、天満宮、豊受神社(神明社)、稲荷神社があります。
木曾義仲「兜石」がある「意冨布良神社」
JR木ノ本駅から伊香高校に行くまでの間。裏は山
太鼓橋のある鳥居を東に進んだところから神輿庫の横らへんに駐車できた
太鼓橋(渡れない)に一の鳥居
鳥居潜って参道を進み、二の鳥居、三の鳥居と続く。ニの鳥居と三の鳥居の間に御手水や社務所
三の鳥居潜って正面拝殿、拝殿右手前に「武将兜掛石」
拝殿右手に田神山天満宮、豊栄神社とかの摂社がでかい。菅原道真像
境内広く木々は紅葉ばっかりなので紅葉シーズンは雰囲気良さそ
拝殿左手に観音寺があるけど別ページがあったので割愛
寿永二年5月、木曾義仲が越前国より京へ出陣する途中に参詣し武運祈願で兵糧を神供したとされる。その時に兜を脱いで置いたとされる「兜石」が残っている。
平べったいでっかい石
「兜石」
柵があるので兜は置けません
名称 | 意冨布良神社 |
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読み方 | おほふらじんじゃ |
参拝時間 | 参拝自由 |
参拝にかかる時間 | 約15分 |
参拝料 | なし |
トイレ | 授与所横にあり |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | なし |
電話番号 | 0749-82-3990 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
絵馬 | あり |
詳細情報
ご祭神 | 《主祭神》 建速須佐之男命 大穴牟遅神(蟻通神社) 猿田彦大神(神前神社) 八意思兼神(乃彌神社) 梨迹臣命(乃彌神社) 《配祀神》 菅原道真公 天照皇大神 倉稲魂神 |
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ご神体 | 大洞山 |
創建時代 | 白鳳四年(676) |
本殿 | 一間社流造 |
ご由緒 | 当社の草創は、飛鳥白鳳期にして、大洞山の霊峰を、背にし、天武天皇白鳳4年現在地に祀られる。延喜式制定の時神名帳に、大社なりしが、姉川合戦賤獄合戦に文献等殆んど焼失する。考証するところ隣の田部村、村内の往還道路に鳥居ありて、旅人馬乗して通る時は、必らず落馬したと伝えられている。こうした崇りのため恐れて、取除き大洞山で煙埋したと、今に伝えられている。慶長7年8月、小堀新助が奉行となり、当社を、検地した時、当社周辺を「おほふら」と呼び「王布良」と記している。こうした所から古の神社名を「王布良天王社」とも呼ばれていた。寿永2年5月木曽義仲北国より京へ、出軍の時祈願した其の時兜を置いた石「兜石」が今尚残っている。観応3年8月足利将軍八相山合戦の時、陣を取り加護を祈ったという。当地は、室町時代以降枢要の地にして、武門武将の往来繁く、湖北の将佐々木、又京極に属せし武将井口弾正正氏厚く当社を尊敬し大般若経を寄進されている。応安6年僧寛順願主井口弾正源正氏と銘記あり。足利時代以降地方武家の尊崇も厚く国守京極宗意入道は、上京中江北敗軍の時甲冑を解き当明神に納め開運を祈り飯浦越にて発れ後開運ありて再び参詣し、太刀一振を報賽したが、元亀天正の兵禍のため何れも焼せり。元禄10年の記録によれば当山の中腹に、神前神社(猿田彦命)乃禰神社(八意思兼神)蟻通神社(大穴牟運神)の3社があり総称して「神宮」「上の宮」と呼んでいた。延喜式神名下に列挙されている天正の頃朝倉義景此処に陣を構え「田神城」と、いっていてが織田信長に攻落され其の時三社も兵火にあったが御神像は、安泰で今の社に合祀した。今相殿に鎮座されている。大正10年延喜時代の様式であると、美術鑑査状をうけている。明治初年王布良天王とよび明治6年意冨布良神社と改称した。明治18年郷社に大正14年県社に昇格、この記念に社務所が大改築された。 |
体験 | 絵馬御朱印祭り武将・サムライ札所・七福神巡り伝説 |
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