じゅうりんいん|真言宗醍醐派
十輪院のお参りの記録一覧
元正天皇の勅願寺で、元興寺の一子院であったとされる。
鎌倉時代前期(1185年~1274年)建築の本堂は国宝。南門は重文指定されている。
本堂
本堂
護摩堂
御影堂
石造不動明王立像
南門
南門
南山城、奈良市寺巡りの5寺目は、4寺目の璉珹寺の近くに在る雨宝山 十輪院です。
真言宗醍醐派で、本尊は地蔵菩薩ですが、石仏です。(重文指定)
チャンカワイがMCを務めた「ええじゃないか。」というTV番組で紹介されていました。
伝えによれば、奈良時代に遣唐使だった吉備真備の息子が開基で、元興寺の子院であり、弘法大師空海が行脚の途中に滞在したとの事であるが、はっきりした事は不明。が、鎌倉時代の文献には地蔵菩薩の寺として紹介されている。
国宝の本堂は、地蔵菩薩を中心とする石仏龕(がん=仏像を納めるために設けた窪み、簡単に云うと厨子)を拝むための礼堂として鎌倉時代に造られた建物で、天丼が低く、仏堂というより貴族の住居の様です。
本堂の奥に地蔵菩薩が祀られています。石仏のため元々は雨ざらしだったが、後に屋根(覆屋)が作られ、本堂と繋がっています。
石仏龕は、中央に地蔵菩薩、右側に弥勒菩薩、左側に釈迦如来、それらの外側には二天、更に外側には仁王(阿形、吽形)が花崗岩の石に彫られており、他に十王や五輪塔、梵字も彫られています。このような石仏群は初めて観ました。非常に興味深いです。
本堂内の端には色々な寺宝(仏像、仏具)がガラスケース内に陳列されています。
本堂の手前左側の護摩堂に重文指定の不動明王と二童子が祀られていますが、堂内に入れず拝観できませんでした。(毎月8がつく日に開けられるらしい、要確認。)次回は拝観したいと思います。
尚、駐車場は南側の道路を隔てた所に15台位停めれます。
御朱印
南門(重文)
手水
護摩堂
本堂(国宝)
石仏龕(ネットから転載)
御影堂
奈良滞在中 二度目の十輪院、なぜもう一度来たのかというと、二日前に近くのおばちゃんに勧められたのに夕方だった為駆け足でのお参りになってしまい気になっていたから。法要があり椅子とかありますが、拝観されますか?と言って頂き、お忙しい中説明して下さいました。厨子まで石で出来ている石仏は初めて拝見しました。日曜日は法要が多いのでお断りや何時間も待ってもらうことが多いといわれ、二日前に出会った女性の事などお話し、ご縁に感謝です。当初の予定では最終日大阪経由でちょっと遊んで帰るつもりだったのですが、こちらが気になり奈良に残り福地院にも行けました。
写真は前回投稿しちゃったので頂いたリーフレットと御朱印を。
11月5日、まだ紅葉には早いのでご近所メインにご参拝しました。
十輪院さんも前回大和地蔵十福のご朱印が頂けませんでしたが、今回はご本尊のご参拝もできました。
大和地蔵十福の表紙になっているお地蔵様は、こちらにいらっしゃいます。
土日は法要が多くご参拝出来ない事が有るそうなので、ご予定を組む場合はご注意ください。
カッパの夫婦の謂れを聞くのを忘れてました…
光明真言のマニぐるま
ご朱印
どこにいらっしゃるかは、お寺の方に伺ってみてください。
#十輪院
ご本尊は地蔵菩薩。
#地蔵菩薩
よく、エンマ王は地蔵菩薩の化身という。最初に聞いた時はポカンとした。
これは十王信仰や十三仏信仰のごく一部。個人的には、この考え方が中国から日本へ伝わる過程でどのように発展したか時間を追って整理した方が、かえって分かりやすいと思う。
十王信仰は8世紀末の中国で成立。要点は、死後、初七日から三回忌までの10回に渡りエンマ王や太山王など十王の裁判にかけられるから、生きているうちに彼らを供養して少しでも自分に有利な判決を得ようというもの。この辺の考え方は中国に特有の要素が強い。
地蔵菩薩とエンマ王の習合は中国ですでに起こったが、他の仏様と十王は同一視されなかった。また七回忌以降の3回の年忌法要も存在しなかった。
日本には12世紀末に伝来。鎌倉時代のうちに、十三仏のうちアミダ如来までの10尊と十王の対応が説かれた。古都鎌倉十三佛霊場のパンフによれば、日本固有の本地垂迹説の影響もある。
室町時代の日本で七回忌以降の法要も追加。これらの本尊としてアシュク如来や虚空蔵菩薩が加わり、現在の十三仏体制となる。のみならず十王にも新メンバーとして蓮上王・抜苦王・慈恩王が加入した。
日本仏像大全書によれば、十王や十三仏の思想は日本の他界観を根底から変え、現在まで続いている。それ以前、日本には死後の裁きという概念が無かったそうだ。
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