当社は、「みかた神社」または「たかみさん」「県社」などと申し、社格は式内小社。
当社のご祭神は葦原志許男神(アシハラノシコオノカミ)と申し、又の御名を大国主神(オオクニヌシノカミ)とも申し上げます。志許(シコ)は 、元気のある、武勇に優れた、或は神威赫(シンイカク)たる神という意味であります。 この神様は、今の高峰山(タカミネサン)に居られて、この三方里や但馬の一部も開拓され、蒼生(アヲヒトグサ)をも定められて、今日の基礎を築いて下さいました。
しかし、その途中に天日槍神(アメノヒボコノカミ)が渡来して、国争ひが起こり、二神は黒葛(ツヅラ)を三條(ミカタ)ずつ足に付けて投げられましたところ、葦原志許男神の黒葛は、一條(ヒトカタ)は但馬の気多郡に、一 條は養父郡に、そして最後は此の地に落ちましたので地名を三條(三方)といひ伝へます。又、天日槍神の黒葛は全部、但馬国に落ちましたので但馬の出石にお鎮まりになり、今に出石神社と申します。
やがて葦原志許男神は事を了へられてこの地を去られるに当り、愛用された御杖を形見として、その山頂に刺し植えられ、行在の標(シルシ)とされました。以て、当社の社名「御形」は、形見代・御形代より起こりました。 その刺し植えられた所に社殿を建ててお祀り申しましたのが当社の創祀であります。 やがて奈良朝の宝亀3年(772年)、里人数人が一夜の中に三本の大杉が、山神社の森に鼎立するという霊夢を見、これは山頂の大神の当地へのご遷座の所望であらうとの事で、早速ご社殿を造営し、お祀り申し上げたのが当地での起源であります。平安時代延長5年(927)撰進の「延喜式」にその名が見え、下って室町時代後期の大永7年(1527)3度目の火災の後再建されたのが現在の御本殿です。三間社流造、檜皮葺、昭和42年国指定重要文化財に指定され、昭和46、7年に解体復元工事が施工されて、室町時代後期の見事な彫刻や繊細な組物が甦りました。[当社HP御由緒より引用] |