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じょうぐうじんじゃ

常宮神社
福井県 敦賀駅

御朱印について
御朱印
あり
限定
-
御朱印帳
-
ありません
パーキング
駐車場
-

常宮神社について

国宝『朝鮮鐘』


慶長二年(1597)敦賀城主 大谷吉継が豊臣秀吉の命により、当神社に奉納したと伝えられている。(異説有)

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惣一郎
2022年11月18日(金)
1269投稿

【越前國 式内社巡り】

常宮神社(じょうぐう~)は、福井県敦賀市常宮にある神社。式内論社で、旧社格は県社。祭神は天八百萬比咩命(あめのやおよろずひめ;通称「常宮大神」)、神功皇后(仲哀天皇皇后)、仲哀天皇(第14代天皇)、日本武尊、応神天皇、玉姫命、武内宿禰命。古くは氣比神宮(越前國一之宮)の奥宮・境外摂社。当社が所有する「朝鮮鐘」は国宝。

創建は不詳。主祭神の天八百萬比咩命は上古より当地に鎮まっていたという。仲哀天皇2年(193年)に仲哀天皇と神功皇后が氣比神を拝してから三韓征伐に赴く際、天皇は先に出征したが、皇后はしばらく当社に留まってから出征したと伝わる。のち飛鳥時代の703年に勅命により社殿の修造がなされ、神功皇后・仲哀天皇・日本武尊・応神天皇・玉姫命・武内宿禰命の6柱が合祀された。国史の初見は『日本文徳天皇実録』856年条で、官社に列した旨と神階奉授の記載がある。927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「越前國 敦賀郡 天八百萬比咩神社」の論社となっており、他の論社としては天八百萬姫神社(福井県越前市・大塩八幡宮境内摂社)がある。
一時廃れたが、1015年に天台僧の円秀僧正により再興され、戦国時代以降も朝倉孝景・景紀、大谷吉継、結城秀康など歴代領主・国主の崇敬を受け、社殿の造営、社領の寄進を受けた。明治に入り、近代社格制度のもと県社に列格した。一時、氣比神宮の摂社と定められたが、のちに独立した。

当社は、JR北陸本線・敦賀駅の北西6kmあまり、道のり9kmの、敦賀湾の西側、海岸沿いの小高い場所にある。林の中にある境内は広く、社殿は神門と瑞垣に囲われた広い神域の中央にある。多くは江戸時代に建立された社殿やその周りの境内社も印象に残るが、海の見晴し台(建物)があることと、国宝の「朝鮮鐘」があることも特徴的。

今回は、越前國の式内論社、福井県の旧県社であることから参拝することに。参拝時は休日の早朝(社務所も開いていない時間)で、激しい土砂降りだったこともあるが、近所住民と思しき人を数人見掛けた。

常宮神社の鳥居

境内南端入口の<一の鳥居>と<社号標>。
鳥居の右側には「安産の神様」と書かれた小さな石柱が立っているが、神功皇后がここで応神天皇を身ごもって腹帯を巻いたという伝説があるため。

常宮神社(福井県)

一の鳥居をくぐってしばらくは駐車場エリアで、さらに進むと上写真のような参道になる。

常宮神社(福井県)

参道の右側にある<拝殿>。本殿とはかなり離れて建っている。

常宮神社の建物その他

<拝殿>といっても内部には何もなく、敦賀湾の見晴台兼休憩所のようになっている。
昔は海ぎわから参拝すると、拝殿は一段高いところにあるので、ここで本殿を拝んだのかな。

常宮神社(福井県)

<拝殿>の北東側の景色。南東側を向くと、方角的には氣比神宮がある。
気比神宮の奥宮と呼ばれる所以かしら。

常宮神社(福井県)

拝殿前で参道は左に90度折れ曲がり、<二の鳥居>がある。扁額には「常の宮」とある。

常宮神社(福井県)

参道左側の<手水舎>。

常宮神社の山門

参道を進むと、一段高いところに<中門>がある。

常宮神社の山門

<中門>全景。江戸時代中期の建立。正面1間、側面2間の四脚門。
この内側が神域ということかな。

常宮神社(福井県)

中門には<参拝のお土産>が置いてある。松尾芭蕉は敦賀で10の句を詠んだらしく、その句にも出てくる貝殻や、樹木の種子などがある。
宮司さんの嬉しい気配り~♪(o^―^o)

常宮神社の建物その他

中門をくぐったところからの眺め。本殿はさらに少し高いところにある。

常宮神社(福井県)

中門をくぐって右手を見ると、突き当りには<国宝・朝鮮鐘>を収めた建物。
手前は<社務所>で、ご朱印などはたぶんこちら。
(参拝時は8時30分でまだ開いておらず、御朱印は拝受できず...涙)

常宮神社の本殿

参道突き当りの<拝所>全景。もとは氣比神宮の中門で、小浜藩初代藩主・酒井忠勝による寄進。江戸時代前期1637年の建立で、正面1間、側面2間の四脚門。昭和戦前の1943年に当社に移築され拝所となった。

常宮神社(福井県)

<拝所>上部の扁額には「常宮大権現」の文字。

常宮神社の狛犬

拝所の左外側、本殿前にある<狛犬>。歴史を感じる風貌。ちょっとウルトラマン系。

常宮神社の狛犬

拝所の右外側、本殿前にある<狛犬>。礎石には「文政十一年」(1828年)と刻まれている。

常宮神社(福井県)

<本殿>正面。ほど良い彩色と彫刻。

常宮神社の本殿

左側から<本殿>全景。江戸時代中期1713年の再建。桁行3間、梁間3間の三間社流造、向拝1間の前室付、銅板葺。

常宮神社(福井県)

本殿・拝所の左側(南側)の境内社を見て廻る。
まず拝所の左手すぐにある<西殿宮>。祭神は武内宿禰尊。

常宮神社(福井県)

本殿・拝所の左手少し離れたところに建つ境内社8社。
左から順に<豊受大神宮・皇大神宮>、<玉佐々良神社>・<天鈴神社>・<天津彦神社>・<天国津姫神社>、<竹生島神社>、<佐田彦神社>。

常宮神社の末社

本殿の左奥に建つ<稲荷神社>(左;豊玉稲荷大神)と<八坂神社・恵比須神社>(右;素戔嗚尊・恵比須大神)。

常宮神社(福井県)

<本殿・拝所>全景。なかなか立派な建物。

常宮神社(福井県)

拝所の右手すぐにある<東殿宮>。祭神は日本武尊。

常宮神社の末社

本殿の右奥に建つ<平殿宮>(左;玉姫尊)と<総社宮>(右;応神天皇)。

常宮神社(福井県)

最後に、中門近くからの景色。参拝時10月10日時点で、数本の樹木がほんのり紅葉。
今週末(11月中旬)なら、当社の紅葉はかなりキレイかも。(^▽^)/

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歴史

 天八百萬比咩命(常宮大神)は上古より此の地に鎮まり給い、今から2,000年前、仲哀天皇の即位2年春2月に天皇皇后御同列にて百官を率いて敦賀に行幸あそばされ、筍飯の行宮を此の地に営まれた。
そののち、天皇は熊襲の変を聞こしめされ、紀州に向かわれ、さらに陸路、山陽道を御通過、今の山口県に向かわれた。
 神宮皇后は、2月より6月まで此の常宮に留まられ、6月中の卯の日に海路日本海をお渡りになり、山口県豊浦の宮にて天皇と御再会あそばされた。
この由緒をもって、奈良朝時代の大宝3年(703)、勅をもって社殿が修造され、神功皇后、仲哀天皇、応神天皇、日本武命、玉妃命、武内宿禰命が併せ祀られたという。
当社御社名は神功皇后が「つねに宮居し、波風静かなる哉楽しや」と宣り給われた故事によるという。
 爾来、氣比神宮の奥宮として一体両部、上下の信仰篤く、小浜藩政まで氣比神宮の境外の摂社として祭祀が執り行われた。明治9年5月、県社常宮神社として氣比神宮から独立。
 天八百日咩命は、養蚕の守り神として敦賀は勿論、南条郡、三方郡、さらには滋賀県北部の人々の信仰を集めてきた。
神功皇后は、三韓親征の前此の地にて御腹帯をおつけあそばされ、のち、今の福岡県粕屋郡宇美町にて応神天皇を御安産になられた故事に因み古くより安産の神として御神徳を垂れ給われている。
また皇后は此の地を船出されるにあたり、海神を祀り海上の安全を祈願され、はるばる日本海を渡られ、朝鮮までも無事航海された由縁により、海の守り神として深い信仰を集めている。
豊臣秀吉公、当社を崇敬し、文禄の役(1592)に兵たちの武運長久を祈願し、凱旋に際して、慶長2年(1597)2月29日彼の地朝鮮の吊鐘1口を敦賀城大谷刑部吉隆を正使として奉納した。
この吊鐘は「朝鮮鐘」の名で明治33年、美術工芸甲種第1号として国宝に指定され、昭和27年10月、新国宝に再び指定を受けた。
 本殿は、越前福井藩主松平公の寄進により、正徳2年(1713)の建築である。
御屋根銅版葺替修理を昭和38年7月に行った。
御拝所は、元、氣比神宮中門であったものを昭和17年当社に移築したが、これは、寛永14年(1637)酒井忠勝公の寄進である。
 当社の例祭は、毎年7月22日午前10時より行われる。
そして同正午より総参祭が斎行される。
この総参祭は、氣比神宮の宮司・神職・総代ほか多数が、氣比の神々を船神輿に奉安し大小の船を連ねて当宮に海上渡御され、当宮本殿に遷ったのち、再び午後3時に帰還されるものである。
たなばた祭とも呼ばれている。

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常宮神社の基本情報

住所福井県敦賀市常宮13-11
行き方
アクセスを詳しく見る
名称常宮神社
読み方じょうぐうじんじゃ
通称常宮さん
参拝料

無料

御朱印あり

限定御朱印なし
御朱印帳なし
電話番号0770-26-1040
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
SNS

詳細情報

ご祭神天八百萬比咩神(あめのやおよろずひめのかみ)
神功皇后(じんぐうこうごう)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
ご神体不詳
創建時代仲哀天皇二年
創始者仲哀天皇
本殿三間社流造
文化財

朝鮮鐘(国宝)
本殿、拝殿、中門(県指定有形文化財)

ご由緒

 天八百萬比咩命(常宮大神)は上古より此の地に鎮まり給い、今から2,000年前、仲哀天皇の即位2年春2月に天皇皇后御同列にて百官を率いて敦賀に行幸あそばされ、筍飯の行宮を此の地に営まれた。
そののち、天皇は熊襲の変を聞こしめされ、紀州に向かわれ、さらに陸路、山陽道を御通過、今の山口県に向かわれた。
 神宮皇后は、2月より6月まで此の常宮に留まられ、6月中の卯の日に海路日本海をお渡りになり、山口県豊浦の宮にて天皇と御再会あそばされた。
この由緒をもって、奈良朝時代の大宝3年(703)、勅をもって社殿が修造され、神功皇后、仲哀天皇、応神天皇、日本武命、玉妃命、武内宿禰命が併せ祀られたという。
当社御社名は神功皇后が「つねに宮居し、波風静かなる哉楽しや」と宣り給われた故事によるという。
 爾来、氣比神宮の奥宮として一体両部、上下の信仰篤く、小浜藩政まで氣比神宮の境外の摂社として祭祀が執り行われた。明治9年5月、県社常宮神社として氣比神宮から独立。
 天八百日咩命は、養蚕の守り神として敦賀は勿論、南条郡、三方郡、さらには滋賀県北部の人々の信仰を集めてきた。
神功皇后は、三韓親征の前此の地にて御腹帯をおつけあそばされ、のち、今の福岡県粕屋郡宇美町にて応神天皇を御安産になられた故事に因み古くより安産の神として御神徳を垂れ給われている。
また皇后は此の地を船出されるにあたり、海神を祀り海上の安全を祈願され、はるばる日本海を渡られ、朝鮮までも無事航海された由縁により、海の守り神として深い信仰を集めている。
豊臣秀吉公、当社を崇敬し、文禄の役(1592)に兵たちの武運長久を祈願し、凱旋に際して、慶長2年(1597)2月29日彼の地朝鮮の吊鐘1口を敦賀城大谷刑部吉隆を正使として奉納した。
この吊鐘は「朝鮮鐘」の名で明治33年、美術工芸甲種第1号として国宝に指定され、昭和27年10月、新国宝に再び指定を受けた。
 本殿は、越前福井藩主松平公の寄進により、正徳2年(1713)の建築である。
御屋根銅版葺替修理を昭和38年7月に行った。
御拝所は、元、氣比神宮中門であったものを昭和17年当社に移築したが、これは、寛永14年(1637)酒井忠勝公の寄進である。
 当社の例祭は、毎年7月22日午前10時より行われる。
そして同正午より総参祭が斎行される。
この総参祭は、氣比神宮の宮司・神職・総代ほか多数が、氣比の神々を船神輿に奉安し大小の船を連ねて当宮に海上渡御され、当宮本殿に遷ったのち、再び午後3時に帰還されるものである。
たなばた祭とも呼ばれている。

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