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永閑寺ではいただけません
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えいかんじ|真宗大谷派

永閑寺
新潟県 見附駅

御朱印について
御朱印
なし
パーキング
駐車場
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Ka-z
2019年02月14日(木)
6投稿

北越戦争の中でも激戦を繰り広げた今町の戦いの舞台の1つで有名です。付近には当時の戦の凄絶さを感じさせる弾痕なども、残されたりしています。本堂は今町の戦いの後焼失し、新しく建立されています。

永閑寺の山門

永閑寺の正面です。慶應4年6月2日火蓋を落とした今町の戦いでは、長岡藩軍事総督河井継之助自ら指揮を執り、大隊長には若手の山本帯刀、奥羽越列藩同盟の会津藩の佐川官兵衛、衝鋒隊の古屋佐久左衛門、越後の草莽隊の1つ聚義隊の観音寺久左衛門らが奮戦し、旧幕府軍側が勝利を収めています。

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名称永閑寺
読み方えいかんじ
電話番号0258-66-2382
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詳細情報

ご本尊阿弥陀如来
宗旨・宗派真宗大谷派
ご由緒

1828(文政11)年に発生した三条地震により、寺の殆どが倒壊していますが、40年後の1868(慶應4)年に再建し、4月には本堂落慶法要も執り行われました。
しかし同年に北越戦争の火蓋が切って落とされると、永閑寺含め見附今町も戦の舞台と化します。5月28日は新政府軍が今町に到着し、永閑寺を本陣としました。
6月2日、長岡藩軍事総督河井継之助の指揮により、今町攻撃が開始すると、劣勢を強いられた新政府軍はやがて見附方面に敗走しました。
永閑寺には、当時の住職であった山宮秀霊が残っており「焼いてくださるな、と懇願するも、「馬鹿を言うな、ここは(新政府軍の)本陣だぞ」と突き返され、弓張り提灯を次々と切り落とされやがて本堂含め焼け落ちました。
現在の本堂は、1887(明治20)年に再建されたものとなります。

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