はちだいじんじゃ
八大神社のお参りの記録一覧(3ページ目)
八大神社
夏の御朱印は郵送頂きました。秋の御朱印と9月の御朱印頂きました。
役所広司さんが演じてたなー。あとバガボンドのイメージだからか、この像弱そう…
下り松古木、大事にガラスケースに。
一乗下り松 この少し下に吉岡道場一門決闘の地の碑がありました。
昔、北の祇園社とも呼ばれた宮本武蔵ゆかりの社。
京都洛北・森と水の会の参画社寺でもあり、会員30社寺にて「ご朱印巡り」を企画を行ってます。
御朱印収集10社ごとに記念の「コースター」が授与されます。
山ノ神社・牛宮社
社務所
剣鉾
剣鉾
本殿
宮本武蔵像
宮本武蔵と吉岡一門決闘の地「一乗寺下り松」
右より、加茂大神社・柊大神社、赤山大神社・貴布禰大神社、春日大神社・新宮大神社、諏訪大神社・竈大神社、賢防大神社、八幡大神社、日吉大神社
皇大神宮社
鷺森台神社・大将軍社
常盤稲荷
御神木 杉
宮本武蔵ゆかりの八大神社へ。内田吐夢が監督した「一乗寺の決斗」のポスターやスチール、劇場用看板などが飾られていた。昔BSで観て、異様な迫力に興奮した映画だ。自衛隊演習地である滋賀県・饗庭野にオープンセットを作った逸話が伝説的に知られている。例えば、超巨大な人工の松を植え、大勢の人が走り回れるよう、コンクリートを流し込み強化したあぜ道を作り、氷に見たてたパラフィンを田んぼの水面へ大量に入れた。そして、その中で役者たちが血まみれ泥まみれで転がり、刀をふるって死闘を演じたという。この話を、春日太一の「あかんやつら」で読んだときはたまげた。当時の東映のでたらめさと、めちゃくちゃなエネルギーを感じられてオススメである。
境内には武蔵像のほか、下り松の実物が保存展示されている。
かつて邦画の定番とされた「宮本武蔵一条寺下り松の決闘」の舞台となった場所が傍にあります。
そしてこの神社は吉川英治「宮本武蔵」で登場し、一躍有名になりました。
現在もこの近くに「ここが一条寺下り松ですよ」という史跡はありますが、現在の松は四代目。境内には当時の一条寺下り松の名残が残されています。
この松には他にも逸話があって、HPには【「敦盛遺児伝説」です。一の谷で戦死した平敦盛の遺児が松の下に捨てられているのを法然上人が拾い上げ、立派な僧に育てあげたと、伝えられています。
また、建武三年(1336年)、楠木正成が足利軍と対峙(たいじ)して、この地に陣を構えたことも伝わっております】と紹介されています。
行った時は10月なのにとにかく暑い日でして(苦笑)
一人で向かってみたものの炎天下でぼんやりしてました。
ここは一条寺の守護神社だったのでしょうかね。守護神社にスサノウはよく使われます。比叡山延暦寺の末寺である園城寺の別院・一乗寺は南北朝時代末に廃寺となってしまい、寺名のみが地名として残っています。
宮本武蔵の銅像
一条寺下り松の遺跡
一条寺下り松
一条寺下り松
神紋の印
同じ祇園信仰の八坂神社のものと比べて
三つ巴を陰紋にしているのが面白いと思いますw
(今は日向紋に変わっているようですね?)
公式HPの宮座,剣鉾のページが勉強になりましたw
印
五瓜に唐花 陰左三つ巴
八大神社
墨
八大神社
京、一条寺下り松
鎌倉中期に勧誘により建立された神社。
都の北東、「表鬼門」にあたることから「北の祇園」北天王と呼ばれ、京都御所を守護する皇居守護神十二社中のうちの1つとなっている。
ここ、狸谷山は宮本武蔵が不動心を会得した場であるが、吉岡一門の門下生たちとの戦い(※)の際、ここで神頼みをしていこうと考えたものの、神頼みで勝負に勝とうとしている自分の弱さに気づき、参拝をやめたという逸話も残る。
※:武蔵が京の都に上洛した際、代々足利将軍家の師範格であった吉岡家と決闘を行ったが、師範2人を破られた吉岡一門の弟子たちが「武術では勝てないので闇討ちしよう」と画策する。
それを知った武蔵が自分の弟子にこれらを見張らせ、逆に弟子たち数十人を返り討ちにした、とされる逸話。
これが有名な「一乗下り松の決闘」である。
お山のふもとにある一の鳥居。八大神社がかつて広大な敷地を保有していたことの名残。
名物はコレ。
現在の入口鳥居。
早速出迎える武蔵のイラスト。なんかチャラい。
これがあちこちにある。
昔の映画の写真など。
そして本殿。
「若き日の武蔵像」と「初代下り松」
御守りも絵馬も宮本武蔵。
現在の「一条下り松」当時はこのあたりの交通の要所として知られていたらしい。
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