こくらぎおんやさかじんじゃ
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楽しみ方
小倉祇園八坂神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2026年09月25日(金) 00時26分54秒
参拝:2026年8月吉日
かつては幼少期よりよく参拝していたが、いつ以来だろうか。
中年になってからは初。
忠興公の創建だと思っていたが遥かに前だった。870年。笑
現在の小倉南区長尾に創建、1617年に忠興公の治世に「小倉祇園社感応院」として遷座。
祇園社だし素戔嗚と牛頭天王。
牛頭天王の名残は撮影し損ねたが一の鳥居をくぐる手前右手のエリアにある。近代以降かな、兵馬の供養費などもある。
さて、一の鳥居。
こちらは室町期の物で、一塊の大きな石を何パーツかに分けて組み上げた物らしい。
社殿に向かう途中には様々な石碑や(細川)三斎の井戸。
社殿に向かって右側には東楼門。小倉城のものをそのまま流用のよう。かつては城の防御、今は神域の入口。お堀も同様ですね、お疲れ様です。
拝殿は銅版葺の屋根が手前に大きくせり出していて迫力満点。程よい大きさの千鳥破風と手前に唐破風。鈴緒は9本。(多いな!)
拝殿から幣殿、渡殿を経てからの本殿。岡山の吉備津彦神社を彷彿。その様は瑞垣を挟んで拝める。だがその手前には何台か車が停車。興醒めだが堂々たる社殿の割に敷地が狭いから突っ込むのは野暮だろうか。
本殿:京都の八坂神社は拝殿・本殿を一つの入母屋造で覆っているが小倉の八坂神社は拝殿諸々は別、本殿はかつて小倉にあった2つの祇園社を南北に並べ、それを1つの流造の本殿で覆っているそう。
小倉独自のカスタマイズだが二個一という点では京都を踏襲していて粋だなぁと感心。
社殿を囲う瑞垣の周囲を一周でき、向かって左から時計回りに、神楽殿(現在は祈祷殿)、境内社として春日社、金刀毘羅社、恵比寿社、神明社。
右手に社殿、左手には境内社とお堀。
一周すると左手に社務所、東楼門に戻る。
社務所は二階建て(!)、二階は広間があり渡り廊下で拝殿と繋がっている模様。
かつては気にもしなかったが特に建築は見どころ満点。
旧県社
単立神社
八坂神社と祇園祭を愛する市民から神仏習合の名残は今更切り離せないよね。よって神社本庁には所属しないのかな、と推測。
本殿は内部は北殿と南殿の二つの祇園様が合祀
北殿(旧三本松の祇園社・向かって右)
櫛名田比売命
須佐能袁命
天之菩卑命
天之忍穂耳命
天津日子根命
活津日子根命(いくつひこね)
熊野久須比命(くまのくすび)
市杵島比売命
多紀理比売命
多岐津比売命
南殿(旧愛宕山の祇園社・長尾の祇園社・向かって左)
大名牟遅命
少比古那命
須佐之男命
櫛名田比売命
中結祇園守
唐花木瓜
左三つ巴
以下公式より
忠興公が1617年(元和3年)にこの神社を五穀豊穣・城下繁栄の「豊前国総鎮守」として創建した背景には、大名としての傲慢さを戒められた、ドラマチックな伝承が残されています。
神罰による失明の危機元和2年(1616年)の秋、忠興公が小倉城の西にある愛宕山へ鷹狩りに出かけた際、苔むした古い石の祠(ほこら)を見つけました。中身が気になった忠興公は、あろうことか乗馬鞭や杖で祠の扉をこじ開けようとしました。
その瞬間、中から一羽の鷹(伝承によっては怒った蜂の群れ)が飛び出し、忠興公の目を激しく攻撃したのです。京都の祇園信仰との奇妙な一致激痛とともに失明同然となった忠興公は、己の非礼を深く反省し、平癒を祈願して社殿の建立を誓いました。するとたちまち目は快癒したといいます。後に出自を調べたところ、その祠に祀られていたのは、たまたま忠興公が生まれ育った京都の「祇園社(素戔嗚尊)」と同じ神様であることが判明しました。城下町の「碁盤の目」と祇園祭の誕生この霊験にいたく感動した忠興公は、小倉の鋳物師町に大規模な社殿を創建しました。さらに、自らが愛した「京都の文化」を小倉に根付かせるため、小倉の城下町を京都そっくりの碁盤の目に区画整理し、京都の祇園祭を模した祭り(現在の小倉祇園太鼓)をスタートさせたのです。
中年になってからは初。
忠興公の創建だと思っていたが遥かに前だった。870年。笑
現在の小倉南区長尾に創建、1617年に忠興公の治世に「小倉祇園社感応院」として遷座。
祇園社だし素戔嗚と牛頭天王。
牛頭天王の名残は撮影し損ねたが一の鳥居をくぐる手前右手のエリアにある。近代以降かな、兵馬の供養費などもある。
さて、一の鳥居。
こちらは室町期の物で、一塊の大きな石を何パーツかに分けて組み上げた物らしい。
社殿に向かう途中には様々な石碑や(細川)三斎の井戸。
社殿に向かって右側には東楼門。小倉城のものをそのまま流用のよう。かつては城の防御、今は神域の入口。お堀も同様ですね、お疲れ様です。
拝殿は銅版葺の屋根が手前に大きくせり出していて迫力満点。程よい大きさの千鳥破風と手前に唐破風。鈴緒は9本。(多いな!)
拝殿から幣殿、渡殿を経てからの本殿。岡山の吉備津彦神社を彷彿。その様は瑞垣を挟んで拝める。だがその手前には何台か車が停車。興醒めだが堂々たる社殿の割に敷地が狭いから突っ込むのは野暮だろうか。
本殿:京都の八坂神社は拝殿・本殿を一つの入母屋造で覆っているが小倉の八坂神社は拝殿諸々は別、本殿はかつて小倉にあった2つの祇園社を南北に並べ、それを1つの流造の本殿で覆っているそう。
小倉独自のカスタマイズだが二個一という点では京都を踏襲していて粋だなぁと感心。
社殿を囲う瑞垣の周囲を一周でき、向かって左から時計回りに、神楽殿(現在は祈祷殿)、境内社として春日社、金刀毘羅社、恵比寿社、神明社。
右手に社殿、左手には境内社とお堀。
一周すると左手に社務所、東楼門に戻る。
社務所は二階建て(!)、二階は広間があり渡り廊下で拝殿と繋がっている模様。
かつては気にもしなかったが特に建築は見どころ満点。
旧県社
単立神社
八坂神社と祇園祭を愛する市民から神仏習合の名残は今更切り離せないよね。よって神社本庁には所属しないのかな、と推測。
本殿は内部は北殿と南殿の二つの祇園様が合祀
北殿(旧三本松の祇園社・向かって右)
櫛名田比売命
須佐能袁命
天之菩卑命
天之忍穂耳命
天津日子根命
活津日子根命(いくつひこね)
熊野久須比命(くまのくすび)
市杵島比売命
多紀理比売命
多岐津比売命
南殿(旧愛宕山の祇園社・長尾の祇園社・向かって左)
大名牟遅命
少比古那命
須佐之男命
櫛名田比売命
中結祇園守
唐花木瓜
左三つ巴
以下公式より
忠興公が1617年(元和3年)にこの神社を五穀豊穣・城下繁栄の「豊前国総鎮守」として創建した背景には、大名としての傲慢さを戒められた、ドラマチックな伝承が残されています。
神罰による失明の危機元和2年(1616年)の秋、忠興公が小倉城の西にある愛宕山へ鷹狩りに出かけた際、苔むした古い石の祠(ほこら)を見つけました。中身が気になった忠興公は、あろうことか乗馬鞭や杖で祠の扉をこじ開けようとしました。
その瞬間、中から一羽の鷹(伝承によっては怒った蜂の群れ)が飛び出し、忠興公の目を激しく攻撃したのです。京都の祇園信仰との奇妙な一致激痛とともに失明同然となった忠興公は、己の非礼を深く反省し、平癒を祈願して社殿の建立を誓いました。するとたちまち目は快癒したといいます。後に出自を調べたところ、その祠に祀られていたのは、たまたま忠興公が生まれ育った京都の「祇園社(素戔嗚尊)」と同じ神様であることが判明しました。城下町の「碁盤の目」と祇園祭の誕生この霊験にいたく感動した忠興公は、小倉の鋳物師町に大規模な社殿を創建しました。さらに、自らが愛した「京都の文化」を小倉に根付かせるため、小倉の城下町を京都そっくりの碁盤の目に区画整理し、京都の祇園祭を模した祭り(現在の小倉祇園太鼓)をスタートさせたのです。
すてき
投稿者のプロフィール
ダイエットブッチャー127投稿
2025/4/9 相模国一之宮・寒川神社で御朱印デビュー 元から寺社、近現代含め建築や美術品の鑑賞が好きでした。 御朱印を拝受し始めてから神仏や歴史についての知的好奇心が湧き、年2回の休暇は...もっと読む
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