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武田八幡宮ではいただけません
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たけだはちまんぐう

武田八幡宮
山梨県 韮崎駅

御朱印について
御朱印
あり
限定
-
御朱印帳
-
ありません
パーキング
駐車場
あり

あり

武田八幡宮について

一の鳥居は二の鳥居手前の歩道上にある2基の柱のみ、小さいので見逃します

山梨県のおすすめ2選🎎

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惣一郎
2022年04月29日(金)
1269投稿

【甲斐國 古社巡り】

武田八幡宮は、山梨県韮崎市神山町北宮地にある神社。旧社格は県社。祭神は誉田別命、足仲津彦命、息長足姫命、武田武大神。本殿は国指定の重要文化財。

社伝によると、平安時代初期の822年、宇佐神宮または石清水八幡宮の分霊を勅命によって勧請し、地名から武田八幡宮と称したことに始まる。『甲斐国志』では、当社別当寺の法善寺(南アルプス市)の記録に基づき、822年に空海の夢の中で八幡大菩薩が武田郷に出現したために神祠を構えたのが始まりとしている。なお同書では日本武尊の湖である武田王が御殿を設けたことが武田の地名の由来。
平安時代末期に武田信義が当社を氏神とし社殿を再建している。歴代の甲斐国司も造営を行った。戦国時代には武田信玄が社殿を再建している。武田氏滅亡後の1583年には徳川家康が社領を安堵している。江戸時代に甲府藩主となった柳沢吉保は社殿の修復を行っている。明治時代に入り、近代社格制度の下、県社に列格した。

当社は、JR中央本線・韮崎駅の西方3kmの山の中腹にある。標高が高いので境内入口に立つと、東方に釜無川沿い(JR中央本線沿い)の市街地や甲府盆地北側の山々が見渡せる。境内は斜面にあるので、境内東端入口から徐々に登っていき本殿に至る造りになっている。本殿が国指定の重要文化財の立派な建物であることと、裏山は熊が出没するようで頑丈な鉄柵が張り巡らされていることが印象的。

今回は、山梨県の旧県社、本殿が国指定の重要文化財であることから参拝することに。参拝時は休日の午後で、自分たち以外にも夫婦連れ、家族連れなどの何組もの参拝者・観光客が訪れていた。

武田八幡宮の鳥居

釜無川のほとりから1.7kmまっすぐ伸びる公道(県道602号線)上にある<二の鳥居>。
鳥居の350m奥の突き当りにあるのが境内地。

武田八幡宮の建物その他

境内東端入口全景。当日は残念ながら入口から参道まで工事中。(^_^;)

武田八幡宮の周辺

境内入口から振り返ると、坂の下の釜無川沿岸地域や、遠くに甲府盆地北部の山々が見える。

武田八幡宮の建物その他

中央に<三の鳥居>と<隋神門>、両側に極太の巨木が見える。巨木好きには超魅力的~♪(o^―^o)

武田八幡宮(山梨県)

かなり立派な<隋神門>。

武田八幡宮の手水

隋神門に向かって左側にある<手水舎>(左手前)と<社務所>(奥)。御朱印はこちら(書置き)。

武田八幡宮(山梨県)

参道の階段が工事中につき、特設通路を登って行く。

武田八幡宮の建物その他

階段を登り切ったところにある大きな<神楽殿>。

武田八幡宮(山梨県)

神楽殿よりもさらに高いところに<拝殿>が見える。

武田八幡宮(山梨県)

<拝殿>への階段を登って行く。

武田八幡宮の本殿

<拝殿>全景。扁額はなし。

武田八幡宮の本殿

<拝殿>内部。奥の本殿を見上げる窓が当社の神紋の形をしている。

武田八幡宮の本殿

<拝殿>の背後、さらに高いところに<本殿>がある。

武田八幡宮(山梨県)

拝殿横に繋がる建物。前に小さな池がある。

武田八幡宮(山梨県)

本殿を脇から。本殿の手前に境内社がある。

武田八幡宮の自然

本殿の背後の高い場所に、幹に注連縄を巻いた<御神木>がある。

武田八幡宮(山梨県)

こちらが本殿脇の境内社。明るい色の檜皮葺がきれい。

武田八幡宮の本殿

こちらが<本殿>。室町時代後期1541年の建立。三間社流造、檜皮葺。国指定の重要文化財。

武田八幡宮の建物その他

本殿の鬼瓦。現代風に変更してあるのかな?(^_^;)

武田八幡宮(山梨県)

社殿の左手に、末社<為朝神社>への案内があるので、その方向に進んでみる。(御朱印があり、社務所にて書置きで拝受できる。)
黄色い「熊に注意」の看板があるが、相当頑丈なフェンスが当社周辺に張り巡らされている。これは本当に熊が出そう...(^_^;)

武田八幡宮の建物その他

100m南の小高い場所にある<為朝神社>。この覆屋の中に、社殿と源為朝像が収められている。

武田八幡宮の本殿

本社社殿に戻って、社殿の右側から<拝殿>と<本殿>。

武田八幡宮の末社

上の写真の撮影位置にある石製小社群。

武田八幡宮の本殿

最後に、国指定の重要文化財の<本殿>。美しい造形。(^▽^)/

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歴史

弘仁13年およそ千二百年前の822年嵯峨天皇の勅命により武田王の祠廟を遷座し同時に九州宇佐宮を合祀し創建された古社になります。京都石清水八幡宮の859年よりも古く、鶴岡八幡宮の1063年より遥かに古くなります。これは武田王の祠に由緒するためで、信義公以降は甲斐武田家の氏神として代々尊崇されました。

伝えによれば、武田の地に日本武尊の王子武田王が封ぜられ、その館の跡を桜の御所と名づけたといわれます。

武田王がなくなられて、御所に祠ほこらをたて武田武大神としてあがめ祀まつられるようになり、王のなきがらは手厚く鰐わに塚に葬ったと伝えられています。

清和天皇の御代になって(858〜876)さらに石清水いわしみず八幡宮を勧請かんじょうして合祀しました。

甲斐守となった源頼信以来代々八幡宮を尊崇してきました。義光の曽孫竜光そうそんりゅうこう丸は武田郷ごうに封を受けると、武田八幡宮を氏神と仰ぎ、社前で元服の式を挙げ、武田太郎信義と名のり、武田郷一円を八幡宮に寄進して厚く当社八幡宮を崇敬していました。

武田信虎の時代になって武田家の氏神としての武田八幡宮を崇拝の気は益々厚く、勝ち戦を続けることのできるのは神の加護の賜たまものと信虎は八幡宮の再建を志し、全面的な大工事に天文元年着工しました。その間にも連戦連勝して国内の統一をなしとげ、隣国にも力を伸ばしていったが諸事情があって、信虎は駿河の国に追われる身となり、天文10年(1541)6月14日、信虎の子武田晴信が武田家をつぎました。

父信虎が十年前に始めた八幡宮の再建の大工事も進み、晴信が武田家をついでから半年後の天文10年12月23日には完成しました。

それが現存する武田八幡宮なのです。昭和4年4月6日国の重要文化財に指定された本殿をはじめとして後世に残る多くの建造物や広大な境内の整備が信虎・信玄の父子の手によってなされたのです。境内神社として、為朝ためとも神社、若宮八幡宮があります。また、社殿及建造物には、本殿(重要文化財)、拝殿、神饌殿、神楽殿、神楽装東舎、隨神門、社務所、石鳥居及正面石垣(県指定文化財)、両部型木の大鳥居及輿石(県指定文化財)、為朝神社社殿、若宮八幡宮社殿、手水舎等があり、いずれもすばらしい文化財であります。

韮崎から八幡宮に通ずる路線も早くから県道に編入されており、近年境内の整備が行われ大駐車場も設けられ常時何台かの車が駐車するようになりました。祭日には神楽等多くの催しもあり参詣者も多く賑っています。

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武田八幡宮の基本情報

住所山梨県韮崎市神山町北宮地1185
行き方

中央自動車道 韮崎ICから車で約15分
JR中央本線、韮崎駅前ロータリーから韮崎市民バス円野線に乗車、バス停・武田八幡入口を下車、徒歩約5分

アクセスを詳しく見る
名称武田八幡宮
読み方たけだはちまんぐう
参拝時間

10:00~16:00

参拝にかかる時間

15分

参拝料

なし

御朱印あり

限定御朱印なし
御朱印帳なし
電話番号080-1008-5538
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttps://www.takedahachimanguu.com/

詳細情報

ご祭神《主》誉田別命,息長足姫命,足仲津彦命,武田武大神
創建時代伝822年(弘仁13年)
本殿三間社流造
文化財

本殿(国重要文化財)
末社若宮八幡神社本殿(県有形文化財)
石鳥居(附正面石垣)(県有形文化財)
二の鳥居(県有形文化財)
武田勝頼夫人北条氏祈願文(県有形文化財)

ご由緒

弘仁13年およそ千二百年前の822年嵯峨天皇の勅命により武田王の祠廟を遷座し同時に九州宇佐宮を合祀し創建された古社になります。京都石清水八幡宮の859年よりも古く、鶴岡八幡宮の1063年より遥かに古くなります。これは武田王の祠に由緒するためで、信義公以降は甲斐武田家の氏神として代々尊崇されました。

伝えによれば、武田の地に日本武尊の王子武田王が封ぜられ、その館の跡を桜の御所と名づけたといわれます。

武田王がなくなられて、御所に祠ほこらをたて武田武大神としてあがめ祀まつられるようになり、王のなきがらは手厚く鰐わに塚に葬ったと伝えられています。

清和天皇の御代になって(858〜876)さらに石清水いわしみず八幡宮を勧請かんじょうして合祀しました。

甲斐守となった源頼信以来代々八幡宮を尊崇してきました。義光の曽孫竜光そうそんりゅうこう丸は武田郷ごうに封を受けると、武田八幡宮を氏神と仰ぎ、社前で元服の式を挙げ、武田太郎信義と名のり、武田郷一円を八幡宮に寄進して厚く当社八幡宮を崇敬していました。

武田信虎の時代になって武田家の氏神としての武田八幡宮を崇拝の気は益々厚く、勝ち戦を続けることのできるのは神の加護の賜たまものと信虎は八幡宮の再建を志し、全面的な大工事に天文元年着工しました。その間にも連戦連勝して国内の統一をなしとげ、隣国にも力を伸ばしていったが諸事情があって、信虎は駿河の国に追われる身となり、天文10年(1541)6月14日、信虎の子武田晴信が武田家をつぎました。

父信虎が十年前に始めた八幡宮の再建の大工事も進み、晴信が武田家をついでから半年後の天文10年12月23日には完成しました。

それが現存する武田八幡宮なのです。昭和4年4月6日国の重要文化財に指定された本殿をはじめとして後世に残る多くの建造物や広大な境内の整備が信虎・信玄の父子の手によってなされたのです。境内神社として、為朝ためとも神社、若宮八幡宮があります。また、社殿及建造物には、本殿(重要文化財)、拝殿、神饌殿、神楽殿、神楽装東舎、隨神門、社務所、石鳥居及正面石垣(県指定文化財)、両部型木の大鳥居及輿石(県指定文化財)、為朝神社社殿、若宮八幡宮社殿、手水舎等があり、いずれもすばらしい文化財であります。

韮崎から八幡宮に通ずる路線も早くから県道に編入されており、近年境内の整備が行われ大駐車場も設けられ常時何台かの車が駐車するようになりました。祭日には神楽等多くの催しもあり参詣者も多く賑っています。

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