ひらつかはちまんぐう
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限定 | - | ||
御朱印帳 | |||
駐車場 | 参拝者駐車場があります。念のため社務所の方に確認をしてください。
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23.01.20。JR平塚駅北口より徒歩8分。平塚市浅間町の国道1号線沿いに鎮座。
御祭神 應神天皇・神功皇后・武内宿禰
創建年 (伝)仁徳天皇68年(380年)
社格等 旧県社
神社本庁の別表神社
例祭日 8月15日
札所等 湘南ひらつか七福神 弁財天
【御由緒】~当宮HPより抜粋~
仁徳天皇の御代68年、この地に大きな地震があり、人々の苦しむ様をみかねた仁徳天皇(第16代)が社を建てられたことが創祀とされています。その後も相模國一國一社の八幡宮として、歴代の天皇や源頼朝公をはじめとする武士からも崇敬を集めます。特に御朱印に揮毫する「鎮地大神」は、推古天皇(第33代)より賜った御宸筆から戴いております。
戦国時代になると兵火に遭い、御社殿をはじめ社宝、社伝記はことごく灰塵に帰してしまいました。そのような中、徳川家康公は江戸に入府すると、荒廃していた当宮の御社殿を復興させました。江戸時代、当宮は東西に東海道が通り、集積港であった須賀への道、そして厚木、大山への道が交わる交通の要衝となり、門前は栄え、門前町の大門通りは平塚商業発祥の地と言われています。
大正12年の関東大震災では社殿は倒壊、現在の社殿は昭和3年に竣工。戦後は平塚市七夕まつりをはじめ、町の平和と発展とともに神社は平塚の人々や街と関わりのある人々に篤く崇敬されております。
毎年、松の内には初詣で来ていますが、今年は遅くなりました。当宮の裏手にある市役所に所用があったので北参道(裏参道)からのお参りです。一般の参拝者は少なかったですが、近隣市からの小学生の遠足と遭遇。賑やかな声が聞こえる境内であり、こちらも元気を貰えました。
平塚市役所
境内図
北参道(裏参道)入口
狛犬(阿形)
(吽形)
参道
本殿(左)
末社
忠魂碑の揮毫は東郷平八郎
末社
神楽殿
裏手に《つるみね幼稚園》
献華殿
本日は全国からの絵馬の展示で華やかな感じでした。
拝殿
拝殿前より表参道方向
↓
青銅の鳥居(裏側)
↓
↓
手水
一の鳥居方向
西御池
奥にシラサギ。
↓
↓
一の鳥居
授与所
直書きの御朱印を拝受しました。
頂いたパンフレット
立派なものです。
歴史
本宮は、その昔鶴峯山八幡宮と称えられた古い社で、仁徳天皇の六十八年、この地方に大地震があり、人民の苦難のさまを聞召した天皇が詔して国土安穏祈願のため應神天皇をお祀りしたのが創祀であります。
天平勝宝の古記によると、顕宗天皇が、小年魚贄の膳部を定めてその料として、年々稲秀、麦、大豆を多量に献げられ、仁徳天皇は四千余町の土地をお寄せになられました。
推古天皇の代、この地方にまた大地震があり、人民の苦しみを見かねて天皇は”鎮地大神”のご宸筆を捧げて、国家安穏を祈願され、新たに社殿を造営になられ、天武天皇はこの地の税の三分の二をご寄進になり、文武天皇は”天晴彦”の宝剣を奉納になられたことを伝えて居ります。
寛永十四年筆録の八幡宮記、新編相模風土記によると、聖武天皇は相州一國一社の霊場として法華経を奉献されたということです。
岐阜県高山市山口に鎮座の桜ヶ岡八幡神社(旧郷社)は寛治元年、当宮のご分霊が勧請されたもので、高山祭で有名な桜山八幡神社の本社です。
東鑑によると、建久三年源頼朝は夫人安産のため神馬を奉納し、天正十九年には徳川家康は社領五十石を寄進し、慶長年間には自ら参拝し、伊奈備前守に命じて社殿の再建を行っています。正保三年幕府は社殿営繕料として山林二ヶ所を寄進しております。
明和二年平塚宿の僧本誉還真が十八年の間、浄財を集め、青銅の鳥居を奉献したことは青銅に刻まれて今も社頭に聳えています。
明治六年、官の達示により社名を八幡神社と改称しました。
明治二十七年、明治天皇の王女常宮、周宮両内親王殿下が参拝になられ、社頭に松樹をお手植えになり、神池へ緋鯉を放生になられました。
本宮は創祀の昔から”鎮地大神”と称えられ、厄除、招福の神として信仰厚く祭神の應神天皇、神功皇后は、大陸文化を採り入れた功績から、文化神として、又限りない慈しみと深い母性愛を表される母子神として、安産、生育、学業、武運の守護に、奈良、平安、徳川時代、現在と崇敬敬仰を集めてまいりました。
現在も横浜、川崎は勿論、東京、静岡方面の方々の信仰頗る厚く、宮詣りは後をたちません。
こうした厳粛な史実に輝く本宮は、昭和二十八年神社本庁の別表に掲げる神社として全国有名神社の代表の中に列なる栄誉を担い、現在に至って居ります。
昭和五十三年八月、本宮は”平塚八幡宮”の社号に改められ、なつかしい昔のよび名にかえりました。
創祀より数えて、実に千六百有余年、輝く歴史を奉戴し”神威愈々遍”の感慨一入でございます。
名称 | 平塚八幡宮 |
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読み方 | ひらつかはちまんぐう |
通称 | 相模國一國一社 |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | あり |
電話番号 | 0463-23-3315 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | http://www.hachiman.org/ |
おみくじ | あり |
お守り | あり |
絵馬 | あり |
SNS |
詳細情報
ご祭神 | 應神天皇,神功皇后,武内宿禰 |
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創建時代 | 380年(仁徳天皇68年) |
ご由緒 | 本宮は、その昔鶴峯山八幡宮と称えられた古い社で、仁徳天皇の六十八年、この地方に大地震があり、人民の苦難のさまを聞召した天皇が詔して国土安穏祈願のため應神天皇をお祀りしたのが創祀であります。
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Wikipediaからの引用
概要 | 平塚八幡宮(ひらつかはちまんぐう)は、神奈川県平塚市浅間町(せんげんちょう)にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。 古くは「鶴峯山八幡宮」(つるみねさんはちまんぐう)と称されたほか、「一国一社の八幡宮」「鎮地大神」と称えられている。毎年5月5日に大磯町国府本郷の神揃山(かみそろいやま)で行われる旧相模国の伝統的な祭事、国府祭(こうのまち)に参加する相模五社の一つ(五宮格)であるが、同国における延喜式内社ではない。 |
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歴史 | 歴史[編集] 社伝によると仁徳天皇68年(380年)、この地方を襲った大地震に際し、仁徳天皇の勅願により応神天皇を祭神として創建されたものである。天平勝宝年間の古記では、顕宗天皇が膳部料を献じ、仁賢天皇が四千余町の神領を寄進したとしている。また、推古天皇時代(592年 - 628年)にも大地震があり、推古天皇は「鎮地大神」の親筆を捧げて国家安穏を祈願すると共に社殿を造営した。さらに天武天皇がこの地の税の3分の2を寄進、文武天皇が宝剣「天晴彦(あめのはるひこ)」を奉納したと言う。 寛永14年(1637年)に書かれた『相模国大中郡鶴峯山八幡宮之記』[1]によれば、当社は石清水八幡宮より130...Wikipediaで続きを読む |
アクセス | アクセス[編集] JR東日本東海道本線平塚駅から徒歩8分 東名高速道路厚木インターチェンジから車で約20分 |
引用元情報 | 「平塚八幡宮」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E5%B9%B3%E5%A1%9A%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE&oldid=96744768 |
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